村山信一さん(むらやま しんいち)さん 昭和22年生まれ 小笹

村山澄子さん 村山信一さん
「村山有機農業試験場」
化学肥料や化学農薬を使わないで野菜を作ろうと、失敗をしながら様々な方法を試す村山信一さんは、妻の澄子さんから「『村山有機農業試験場』の看板を掛けたら」と言われます。
「最初にする者は、失敗します。2番手は楽です。」
村山さんの有機農業は、その栽培技術を確立する戦いでした。
「夏にレタスを作るのに『黒マルチ』では、まともに出来ませんでした。そこでメーカーと交渉し、『白マルチ』を作ってもらいました。『白マルチ』が出来て、夏に有機のレタスが作れるようになったのです。」
「堆肥は作付の何ヶ月も前から入れます。土と変わらないぐらいになじませるのです。

レタスの生育状況を撮った写真のアルバムに観察メモ
(澄子さん撮影・記録)
昭和56年に、義理の弟である飯星幹治(みきはる)さんから、有機農業に誘われます。その飯星さんの呼びかけで、4人による「御岳会」が結成されます。その後、「御岳会」を中心として、昭和61年に当時の御岳農協の生産部会である「有機農業研究会」を立ち上げます。その時のキャッチフレーズは「いい水を使って、いい水を流そう」でした。
「最初は部会として認められませんでした。ある方からは、『(農薬を)隠れてかけているのが、分かるものか』とも言われました。」

昭和63年 生協注文カタログの表紙 御岳会
「品物を作る前に、販路を作らなければなりません。」
有機農業による生産物の出荷は、グリーンコープとの取引が始まりで、まず、ジャガイモとサトイモが求められました。
「販路がないと話にならないので、商談会にも行きました。相手が求めているものを探ります。」
値決めは相手との交渉となります。
「(価格を)10円下げるのは易しいのですが、2円上げるのは、とても難しいのです。」
グリーンコープの消費者とは、交流も行ってきました。
「交流はやって良かったですね。小学生が来た時に、『いかだ』を作ったこともありました。」

平成4年 小学生との交流
誰もが有機農業の先駆者と認める村山さん。しかし、本人は、特別なこととは思われません。
「昭和35年頃が、農薬を使い始めた境だと思います。有機農業は、それ以前に戻るだけです。」

万次郎カボチャの畑
※村山信一さんのお米や野菜の出荷先 「土のめぐみ」ホームページ