「有機の人」は今回でいったん終了します。ご愛読ありがとうございました。
佐藤昭人(さとう あきと)さん 昭和26年生まれ 市の原
「信頼でのつながり」
「消費者に支えてもらいました。白菜は、虫食いで「(薄い布の)レース」のようになりました。そんなみすぼらしい野菜でも、買ってもらえたのは救いでした。最初は、手探りで技術もありませんでしたね。」
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佐藤さんは、10代から家の農業に従事し、20代前半には、経営を任され、米、クリ、シイタケ、葉タバコを生産、牛も飼っていました。22歳の時に、近くの佐藤るい子さん(市の原)から、有機農業の普及を進める団体「全国愛農会」が本部の三重県で行う、2週間の短期大学(研修)に行くことを勧められます。
「当時、毎年冬は、岐阜県の建設会社に『出稼ぎ』に行っていました。そこから帰る時に、寄ることにしたのです。まだ若く、『勉強をしたい、学びたい』という気持ちが強くありました。特に、医者であり、お坊さんであり、農業者でもある梁瀬義亮(やなせ
ぎりょう)先生の話が印象に残りました。農薬を使い始めた頃だったので、その影響の話を聞き、自分の中にも『何かしたい』というものが出てきたのです。」
平成10年頃 水田の前で 裕子さん 昭人さん
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それから有機農業を始めたものの、作った野菜の売り先があったわけではなく、自分達で市内のあちこちで即売会をしたり、団地をトラックで回って販売先を作りました。
「スピーカーで宣伝をしながら売りました。そのうち、お得意さんが増えてきて、消費者のグループが出来てきました。」
栽培技術も上がり、生産量が多くなると、それまでの直売から、配達へ、そして生協ともつながりができます。
「熊本生協(当時)でも、無農薬の農産物はありませんでした。その頃、周りでは添加物に関する講演会があるなど、有機農業が盛り上がってきました。消費者は、農薬を使わずに作ったものを求めていたのです。」
ニンジンの畑
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生産者のグループと消費者のグループでは、常に交流会を行います。消費者が農作業を手伝う「援農」もその一つです。
「消費者に生産現場の現状をわかってもらえる「援農」は、自分の励みになりました。期待に応えて、『これはいい物を作ってやらなければならん』と思いました。」
冬には、生産者が消費者に会いに行きます。価格を決めるのもお互いに話合いで、理解を求めます。
「『この価格でないと生産者は生産できない。天候によっては、今はこのような野菜しか出来なかった』と伝えました。そして、それを消費者も理解し、きれいでなくても、揃っていなくても、多少傷があっても買ってもらえました。」
「消費者との距離が近く、顔が見える信頼関係がありました。『おいしい野菜をありがとう』と言ってもらう事が、励みになりました。」
平成10年頃 多くの穂をつけたもち米
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信頼による人とのつながりを大事にしてきた佐藤さん。有機農業を始めて、最も近く、そして強いつながりは、奥さんの裕子(ゆうこ)さんとのものです。熊本市に住んでいた裕子さんが、熊本有機農産流通センター(当時)に勤めている時に知り合い、昭和56年に結婚しました。
「有機農業を始めた頃は、変わり者扱いでした。しかし、妻は有機農業に理解がありました。子どもが育ち盛りの頃は、家計も大変でした。妻にしっかりと支えてもらったからこそ、続けてこられたのです。」
裕子さん 昭人さん
※佐藤昭人さんのお米と野菜の出荷先 生活協同組合 熊本いのちと土を考える会