以前の記事になりますが、忘備録代わりにUPしておきます。
棚田景観セミナー
棚田の歴史をさかのぼる
~白糸台地の棚田から見えてきたもの~
講師 熊大文学部教授 吉村豊雄 先生
平成25年2月3日(日)午後2時
千寿苑に於いて、
主催 教育委員会・白糸第一自治振興会
全国134カ所の棚田があるがそのほとんどの棚田の歴史はわからない。その中で今日に至る棚田の歴史を唯一解明できる棚田が白糸台地の棚田です。白糸台地の棚田には、通潤橋・通潤用水という棚田形成の明確な画期の存在があり,
(1) 鎌倉時代から存在すると思われる既存の水田,これを「古田(こた)」と呼び初期的棚田の段階です。その水源は,「井川さん」と呼ばれる湧水から引かれた古井手で灌漑しています。
次が,(2) 幕末期の通潤橋架橋の時に造られた,南手新井手「上井手(うわいで)、下井手(したいで)」を用...水とする新田(しんた)です。そして,最後が(3) 圃場整備・ポンプ揚水による戦後の新田です。
初期的棚田の時代の古田60町は、台地の谷筋(谷、迫)に位置し(谷田、迫田)、水田は極小で群集している(長野だけでも2000枚、白糸台地全体では約3万枚)。小さいのは、幅50センチの田もあり、多くは畳1、2枚の広さだといいます。
「セマチ」と言う言葉があります。高松市の方言では「畝区」と書き,田圃の1区画のことをこう呼びます。吉村教授は,セマチ(畝町)とは「小さい田」のことで、「コゼマチ」(小畝町)とは、セマチにさらにコを付け小さい田であることを強調した意味だと説明されました。
「百セマチ」=肥後の「田毎(タゴト)の月」と言う言葉もありますが,これについての説明はインターネット上の情報を以下引用します。「田毎の月」とは、同じ月(同じ月の部分)が複数の田に同時にうつることはなく、月の高度がまだ低い場合、数枚の田にわたって1つの月が分割してうつることです。従って,田毎の月が見られる地形は,次の4つの条件が必要だといわれています。
1 棚田のように斜面に作られた幅の狭い水田があること。
2 水がはられた直後か,稲がまだ小さく,水面が十分見える時期であること。(5~6月)
3 棚田が見渡せる高台が,その向かい側にあること。
4 月がのぼってから間もない頃か,もうすぐ沈みそうになっている時間であること。(前者であれば西向きの棚田,後者であれば東向きの棚田であることが必要)
「畦倒し(あぜたおし)」とは,田と田との畦を取り払うことです。「畝町倒し(セマチタオシ」は数枚の田を一枚に開くことです。ぼくらが,登記上使う土地の単位に「筆(ふで)」という言葉があります。土地には地番がつけられ,一つの地番の対象地が1筆の土地と呼んでいます。これとは別に1区画の土地のこと,特に田のことを「一枚」と呼ぶことがあります。上述のセマチのことですね。平坦地では,1セマチが1筆であることが多いのですが,棚田では数セマチが1筆となっています。これを1坪と呼んでいます。「安政申談頭書」のなかに「坪々水不足之節小前々々よりハ如何手数いたし候ハヽ無遅滞通水仕候哉,得斗申談有之度事」とありますが,ここでいう「坪々」が「坪」の事だと知りました。
上述しましたように初期的棚田の時代の古田は、台地の谷筋に位置し、水田は極小で群集していました。それを畦倒しや畝町倒しをして現在の棚田景観に到るまでの先人の苦労はいかばかりかと思います。
「耕して天に至る。以て貧なるを知るべし。以て勤勉なるかな」 中国の李鴻章が瀬戸内海の段々畑を見てこう言ったのだそうです。畑は耕して天に到りますが,田は用水の関係上そうはいきません。田より高いところに用水がなければなりません。白糸台地の新田は,そうした畑を田に変えたのだそうです。これが「上畝開(うわのせひらき)」です。資金ゼロから立ち上げられた事業が成立したのもこの上畝開よる資金返済が可能となったためです。
吉村先生の講義の中で印象深い言葉がありました。それは,「上井手」と「下井手」の同時着工です。「上井手」というのは通潤橋を渡って白糸台地に流れ来て台地の尾根筋を通る水路です。「下井手」というのは,通潤橋上流の五老ケ滝川右岸から取水して白糸台地の谷沿いを走る水路のことです。上井手の水が坪々の田を潤しその余り水は,下井手と合流しさらに下流の坪々の田を潤していきます。一滴水さえ無駄にしないという布田翁の周到な計画です。
そんな上井手,下井手なのですが,吉村先生に言わせると下井手だけを先に開通させることは可能だったけど,布田翁は同時開通にこだわった言います。それは,白糸台地全体が恩恵を受けるためと下井手だけを先行させたら永年の慣行が乱れるからだというのです。微に入り細を穿つ布田翁の気配りには脱帽します。