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    <title>山都町郷土史伝承会</title>
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    <description>山都町郷土史伝承会 日記一覧</description>
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    <title>山都町郷土史伝承会</title>
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    <title>延寿桜</title>
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    <dc:date>2018-04-06T07:56</dc:date>
    <description>  　昨夕、霧雨の中、山都町原の原住家の延寿桜を見て来ました。 　第８代熊本藩主細川斉茲公（細川家当主としては１０代目）は、矢部に何度か来ています。寛政３年（１７９１）に、矢部に狩りに来たときに本陣としたところが、現在の通潤酒造の「御成りの間」です。この「御成りの間」は、後に明治１０年（１８７７）の西南戦争の際に、西郷隆盛が宿泊し軍議を開いた場所としても有名です。  　また斉茲公が文化１４年（１８１７）に矢部に来たときは、中島の原村の原住氏宅に立ち寄りました。その時庭先の桜が満開だったので、斉茲公自らそり桜の枝を切って、床の間にあった竹筒に差し入れました。その花の投げ入れられた姿が実に見事でした。その家の主人の原住桂七は、殿様が茶を飲んでお立ちになった後、写生し庭に挿木しました。原住家では御所桜と名を付けて、玉垣をして大事に育てました。。   六年後にまた斉茲公が来られた時、花が見事に付いていて、そのことを斉茲公に申し上げたところ、非常に喜ばれて「延寿桜」と名を付けられました。斉茲公はその桜を愛でて、そこで飲まれたお茶を桜に注いで熊本にお帰りになりました。   後に斉茲公は、金春流の家元である桜間金太郎に命じて、「延寿桜」のこと題材にした謡曲を作らせられ、延寿桜と共にその謡曲の本が原住家に今も伝えられています。</description>
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    <title>友成</title>
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    <dc:date>2018-04-05T08:25</dc:date>
    <description>&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;  　　一昨日男成神社に、一時（３時間）里帰りした「友成」に会いに行きました。     神前に祭られた「友成」を見て、思わず「お帰りなさい」と心の中で呼びかけました。 　昨年県立美術館の展示室で見た「友成」と、昨日男成神社の神前で見た「友成」とは、背景が違うからでしょうか印象が違いました。... 　説明書きによれば、刃文（刀身の波模様）は直刃（すくは→直線的な刃文）で、太刀（たち→刃を下にしてぶら下げ、馬上で使用することを想定して作られる刀）を磨り上げて、打刀（うちかたな→刃を上にし地上で使用することを想定して作られる刀、そのため太刀に比べて短く反りも浅い）としたものだそうです。 　ちなみに「友成」とは太刀銘で、平安時代の古備前（岡山県東部）鍛冶の刀工の銘です。この名跡は後代まで引き継がれ、この太刀は鎌倉期のものであろうとされています。 　昨日のメインは「友成」でしたが、社前には修復を終えた熊本藩第８代藩主細川齋茲公揮毫による「男成社」社号条幅や九曜紋入り漆塗箱も展示されていました。すばらしい書であるとともに、その修復の完成度の高さに驚きました。修復前の写真と見比べ、よくぞここまで立派に修復したものだと思いました。 　細川齋茲公と言えば、五老ケ滝や千滝などの領内名勝図鑑の作成を命じた殿様であり、矢部には何度もおいでになっています。狩りにおいでになったときに、昨日花見をしました山神山で祭りをされています。 　また、本日花見に行く予定の山都町原の原住家の「延寿桜」にも、たいへんゆかりのある殿様でもあります。 </description>
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    <title>無い物ねだりでなく、あるものを活かす</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:25</dc:date>
    <description>　山都町食農観光塾最終発表会を見に行きました。今回で三期生となります。それぞれが、山都町活性化のための企画を考え発表し、実現へ向けて行動を開始します。   　前回行われた矢部高校生と熊本県立大学生による「山都町地域活性化プランコンテスト」もそうですが、こうやって若い人たちがまちづくりに積極的に関わってくれることがとても頼もしく嬉しく思います。   　今回もインターネットを使った情報発信などが紹介されました。なかには、インターネットは手段に過ぎないとのご意見をお持ちの方もいらっしゃるかも知れません。...  　しかし、情報発信するには、それだけ山都町のことをよく知らなければ情報も発信できません。そういう意味では、インターネットによる情報発信の効果以上に、その前段階の「山都町のことを知る」と言うことは、有意義なことだと思います。   　何にもないと思っていた山都町が、何にもないこと自体が宝になったり、あるいは当たり前だと思っていたことが当たり前でなく「有り難い」ことだと気づく。こういうことってよくありますよね。   　いまやっと、若い人たちの中にもそういう眼で地域を見直してくれる人たちが増えてきたことが嬉しいです。</description>
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    <title>「翔ぶが如く」に記された矢部郷浜町</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:21</dc:date>
    <description>　「矢部郷浜町は、東肥後山中にあって、さらに東行すれば人煙のまれな日向の山岳地帯に入る。     浜町は、山間の集落ながら良質の水にめぐまれ、江戸後期ごろから醸造業がさかんになり、なかでも備前屋という造り酒屋が屋敷や倉など最も大きく、商いも手びろくやっていた。」  これは、司馬遼太郎著「翔ぶが如く」の一小節です。「備前屋」というのは、現在の「通潤酒造」のことです。 ... 明治10年3月田原坂の戦いに敗れた薩軍は、同年4月21日に備前屋、現在の山都町浜町５４番地・株式会社通潤酒造に於いて軍議を開き「人吉に籠ろう」との結論に至りました。   一昨日の「日向往還歴史ウォークin山都町・浜町阿蘇家散策コース」では、この備前屋が大きな目玉でした。  ここには、通潤酒造の広報担当菊池一哲さんが居ますので、彼に説明をお願いしました。お寺の副住職でもある菊池さんは、さすが慣れたものです。そつのない、しかも名調子の説明で、思わずぼくもその説明に聞き惚れてしまいました。ぼくも、彼ほど名調子でガイドができればと彼の語りを羨ましく思いました。   「翔ぶが如く」では、浜町を去る西郷のことを次のように記しています。   「西郷が、肥後矢部郷浜町を発ったのは、四月二十二日である。  粗末な竹籠に乗り、人夫が前後からかついだ。重いために、たえず六人が予備としてついて歩き、肩代わりした。肥後・日向さかいまでの数里は、すべて坂だった。その行路を、菜種梅雨のあわい雨が、やむことなく濡らした。(文春文庫・司馬遼太郎著「翔ぶが如く(九)」</description>
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    <title>朗読劇「通潤魂」</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:21</dc:date>
    <description>　昨年の矢部高校の文化祭で、地元小中高校生による朗読劇「通潤魂」が披露されました。あいにく私は、当日所用で観ることができなかったのですが、昨日図書館ホールに於いて、その時のDVD上映会があり、観ることができました。 　感動しましたね。布田保之助さんの立志から通潤橋の完成まで、小中高校生がそれぞれの役割を分担して朗読し、さらには文楽風に浄瑠璃と三味線まで加わり、「通潤魂」を表現しました。 　こうして、地元小中高校生により「通潤魂」が伝えられていくことがとても嬉しいです。願わくば、一度だけで終わることなく、これからも末永く後世に伝えられることを願います。</description>
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    <title>冬の楽しみ</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:20</dc:date>
    <description>　寒い日が続いていますね。 　１月２０日は大寒でした。大寒に入るとぼくの実家では、毎年「寒施行」を行います。「寒施行」と言うのは，真冬で餌もなく困っているけもの達に、少しでも食べものを与えてやろうという心が生んだと風習です。七畝稲荷神社の奥宮や金比羅さんなどに、小豆飯の握り飯、いりこ、油揚げなどを供えて廻ります。まるで日本昔話のような心やさしい風習です。 　さて冬は、日本で一番南にある天然雪のスキー場、五ヶ瀬ハイランドスキー場がお勧めです。山都町の隣町に位置しています。そして、冷えた身体を温めるには、国民宿舎「通潤山荘」の浜の湯温泉が最高です。ただし、スキー場は、天候によって左右されますので、必ず事前に積雪やゲレンデの様子を問い合わせてください。問い合わせ先は http://www.gokase.co.jp/ski/     </description>
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    <title>夏越しの祓い</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:20</dc:date>
    <description>&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;早いもので、今年も半分が過ぎましたね。昔の人は、１年を６月晦日と１２月晦日の半分に分けて考えました。晦日（みそか）というのは、月の最終日のことです。昔は太陰太陽暦でしたので、２９日または３０日が月の最終日でした。 　それが、太陽暦に変わり小の月は３０日、大の月は３１日が晦日となった次第です。よって、６月晦日は６月３０日で１２月晦日は１２月３１日のことです。特に１２月晦日のことを大晦日と呼んでいます。 　大晦日が新年を迎えるための大切な日であったのとおなじように、六月晦日も、神に年の前半のあいだの無事を感謝し、収穫までの後半年の無事を祈るための物忌みの日、祓いの日と考えられたのです。 　昔、宮廷では十二月晦日と六月晦日の年二回、「大祓い」の神事が行われていました。祓いは、日本の神祭りの基本とも言える作法で、大祓いの本来の意義は、年間を通じて最も大切な正月と七月の祖霊迎えの行事を前にして、物忌みを行うことでした。 　そして、十二月のほうを「年越し」と呼ぶのに対し、六月のほうを「名越し（夏越し）」と呼んだのです。その起源は古く、七百一年制定の「大宝律令」に定められています。それは、大内裏の未雀院に天皇に仕える百官の貴族が集まって、国民が犯した罪を除き去るために大祓いの詞をよみあげる儀式でした。この大祓いの行事は次第に民間の神社でも行われるようになりました。&amp;nbsp;　夏越祓いの方法は、人形（ひとがた）にけがれを移して水に流す方法と、「茅の輪くぐり」という方法とがあります。人形を使う方法は、人形に息を吐きかけたりなでたりして災いのもとを人形に託し、陰陽師がこの人形に対して祓いを行ってから御祓川（みそぎがわ）と呼ばれる水辺に流します。 　一方、茅の輪くぐりというのは、神社の境内に茅の輪を設け、参拝者がそれをくぐることによって身のけがれを祓います。そうすることで、夏の恐ろしい伝染病や水の災難を防ぐことができると考えられたのです。&amp;nbsp;&amp;nbsp;　なぜ、夏越祓いとして茅の輪くぐりを行うようになったかは「備後風土記」に書かれている「蘇民将来の話」が由来となっています。あるとき、北海にいた武塔神（むとうしん）が南海にいた女神を訪れようとして道に迷ってしままいまた。そこで蘇民将来（そみんしょうらい）と巨旦将来（こたんしょうらい）の2人の兄弟に一夜の宿を頼みましたが、弟の巨旦将来は金持ちでしたがのに断り、兄の蘇民将来は貧しけれども武搭神を喜んで家に招き入れ、粟殻の座布因に座らせ、粟飯をごちそうして宿を提供しました。武塔神は恩返しとして蘇民将来に「茅の輪」のお守りを授け、蘇民将来の一家の者の腰に着けさせました。 　すると、村に疫病がはやって、みな死に絶えてしまったのに、蘇民将来の一家だけが無事だったのでした。それから、茅の輪は疫病退散、無病患災のシンボルとなったと言う事です。武塔神はスサノオの命の事、備後地方は広島県東部の事です（お話歳時記より）。ぼくの実家である神社でも、６月３０日は朝から茅の輪くぐりが行われています。 　ぼくも、夕方６時過ぎから身体を清め白衣をまとい、陰陽師に変身して大祓の祝詞を唱えながら人形の祓いを行います。一連の神事が終われば、もちろんそのあと直会（なおらい）が行われます。毎年繰り返し行われる年中行事の中に、日本人の原風景を見る思いがします。&amp;nbsp;&amp;nbsp;極めて汚も滞無れば穢とはあらじ内外の玉垣清淨と申す&amp;nbsp; 　きわめてきたなきもたまりなければ　　きたなきとはあらじ　うちとのたまがき　きよくきよしともうす&amp;nbsp;二拝二拍手一拝</description>
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    <title>「通潤橋　水が渡る橋」が道徳教科書に採用</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:19</dc:date>
    <description>　5年前に有志5名で作成した「通潤橋 水が渡る橋」が、来年度から全国で使われる小学校の道徳教科書に採用されました。 　元々「南手新井手」と云う古文書を題材に初代山都町立図書館長の前田和興さんが郷土劇を作りました。それを２代目図書館長下田美鈴さんの発案により紙芝居にアレンジし、そしてさらに絵本にしました。 　今回これが、道徳教科書に採用されたことにより、全国の小学生に布田保之助さんの志を伝える機会が得られ嬉しく思います。</description>
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    <title>白糸台地の棚田から見えてきたもの</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:19</dc:date>
    <description>&amp;nbsp;以前の記事になりますが、忘備録代わりにUPしておきます。 棚田景観セミナー

　　　　棚田の歴史をさかのぼる

　　　　　　～白糸台地の棚田から見えてきたもの～

&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;&amp;nbsp;
　講師　　熊大文学部教授　吉村豊雄　先生

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　平成２５年２月３日（日）午後２時

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　千寿苑に於いて、

　　　　　　　　　　　　　　　　　 主催　教育委員会・白糸第一自治振興会

　全国134カ所の棚田があるがそのほとんどの棚田の歴史はわからない。その中で今日に至る棚田の歴史を唯一解明できる棚田が白糸台地の棚田です。白糸台地の棚田には、通潤橋・通潤用水という棚田形成の明確な画期の存在があり，

(1) 鎌倉時代から存在すると思われる既存の水田，これを「古田（こた）」と呼び初期的棚田の段階です。その水源は，「井川さん」と呼ばれる湧水から引かれた古井手で灌漑しています。

次が，(2) 幕末期の通潤橋架橋の時に造られた，南手新井手「上井手(うわいで)、下井手(したいで)」を用...水とする新田（しんた)です。そして，最後が(3) 圃場整備・ポンプ揚水による戦後の新田です。

　初期的棚田の時代の古田60町は、台地の谷筋(谷、迫)に位置し(谷田、迫田)、水田は極小で群集している(長野だけでも2000枚、白糸台地全体では約3万枚)。小さいのは、幅50センチの田もあり、多くは畳1、2枚の広さだといいます。

　「セマチ」と言う言葉があります。高松市の方言では「畝区」と書き，田圃の1区画のことをこう呼びます。吉村教授は，セマチ（畝町）とは「小さい田」のことで、「コゼマチ」（小畝町)とは、セマチにさらにコを付け小さい田であることを強調した意味だと説明されました。

　「百セマチ」＝肥後の「田毎（タゴト）の月」と言う言葉もありますが，これについての説明はインターネット上の情報を以下引用します。「田毎の月」とは、同じ月（同じ月の部分）が複数の田に同時にうつることはなく、月の高度がまだ低い場合、数枚の田にわたって１つの月が分割してうつることです。従って，田毎の月が見られる地形は,次の4つの条件が必要だといわれています。

　1　棚田のように斜面に作られた幅の狭い水田があること。

　2　水がはられた直後か,稲がまだ小さく,水面が十分見える時期であること。(5～6月)

　3　棚田が見渡せる高台が,その向かい側にあること。

　4　月がのぼってから間もない頃か，もうすぐ沈みそうになっている時間であること。（前者であれば西向きの棚田，後者であれば東向きの棚田であることが必要）

　「畦倒し（あぜたおし）」とは，田と田との畦を取り払うことです。「畝町倒し（セマチタオシ」は数枚の田を一枚に開くことです。ぼくらが，登記上使う土地の単位に「筆（ふで）」という言葉があります。土地には地番がつけられ，一つの地番の対象地が１筆の土地と呼んでいます。これとは別に１区画の土地のこと，特に田のことを「一枚」と呼ぶことがあります。上述のセマチのことですね。平坦地では，１セマチが１筆であることが多いのですが，棚田では数セマチが１筆となっています。これを１坪と呼んでいます。「安政申談頭書」のなかに「坪々水不足之節小前々々よりハ如何手数いたし候ハヽ無遅滞通水仕候哉，得斗申談有之度事」とありますが，ここでいう「坪々」が「坪」の事だと知りました。

　上述しましたように初期的棚田の時代の古田は、台地の谷筋に位置し、水田は極小で群集していました。それを畦倒しや畝町倒しをして現在の棚田景観に到るまでの先人の苦労はいかばかりかと思います。

　「耕して天に至る。以て貧なるを知るべし。以て勤勉なるかな」 中国の李鴻章が瀬戸内海の段々畑を見てこう言ったのだそうです。畑は耕して天に到りますが，田は用水の関係上そうはいきません。田より高いところに用水がなければなりません。白糸台地の新田は，そうした畑を田に変えたのだそうです。これが「上畝開（うわのせひらき）」です。資金ゼロから立ち上げられた事業が成立したのもこの上畝開よる資金返済が可能となったためです。

　吉村先生の講義の中で印象深い言葉がありました。それは，「上井手」と「下井手」の同時着工です。「上井手」というのは通潤橋を渡って白糸台地に流れ来て台地の尾根筋を通る水路です。「下井手」というのは，通潤橋上流の五老ケ滝川右岸から取水して白糸台地の谷沿いを走る水路のことです。上井手の水が坪々の田を潤しその余り水は，下井手と合流しさらに下流の坪々の田を潤していきます。一滴水さえ無駄にしないという布田翁の周到な計画です。

&amp;nbsp; そんな上井手，下井手なのですが，吉村先生に言わせると下井手だけを先に開通させることは可能だったけど，布田翁は同時開通にこだわった言います。それは，白糸台地全体が恩恵を受けるためと下井手だけを先行させたら永年の慣行が乱れるからだというのです。微に入り細を穿つ布田翁の気配りには脱帽します。</description>
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    <title>はやぶさ</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:19</dc:date>
    <description>過去（2011年8月31日）日記から

&amp;nbsp;

　夏休み最後の日曜日で，にぎあう熊本市立博物館へ行ってきました。

お目当ては，リュニアルされたプラネタリウムの鑑賞です。

　投映時間まで時間がありましたので，館内の展示物を見学しました。１階部分は，地質・生物・科学などのフロアで，２階が考古学・歴史・民俗学などのフロアです。もう何回も博物館には訪れていますが，どうしても関心のある２階フロアに足が向きます。

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　民俗学では，よく時間や空間の「境界」を扱います。例えば，空間の境界では，しめ縄を張り巡らし聖と俗とを区分します。しめ縄なんて縄一本なので無視しようとすれば無視して越えることは出来ます。

　しかし，日本では，高い塀や柵をしなくても，簡単な目印を示すだけで，境界がきまり安心できた社会がありました。そこに住む人々がお互いに信頼しあって生きていける社会です。

　帳場もそうですね。低い格子の柵がおかれているだけです。誰でもがそれを乗り越えることができます。しかし，この格子柵の中には，主人と番頭しか入ってはいけないという規範があります。その規範が守れてきたのが日本社会なのです。

　なんと，費用がかからなくて安心安全な社会でしょうね。もう一度，この安心安全な社会を復興させたいものです。

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　そんな思いで展示物を見学していたら，投映の時間となりました。初め１５分程度は熊本のきょうの星空が映し出されました。その後，４５分に亘り小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還に至るまでの物語がナレーションと共に投映されました。

いやー，感動しましたね。途中からぼくは，はやぶさに感情移入してしまい，数々の困難に立ち向かうはやぶさに対して「がんばれ！」とエールを送っていました。大気圏再突入の場面では，自分の身を焦がして地球に戻ってくるはやぶさに涙があふれて止まりませんでした。

　と，同時に先ほど民俗学の展示物を見て感じた日本の心を思い出しました。物体である「はやぶさ」に対して，まるで命あるもののように愛しい心を抱き涙する我々日本人は，「物これ物にあらず」なんだなと思いました。

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　天皇誕生日に先立つ2010年12月20日の記者会見で、天皇陛下は「はやぶさ」について次のように述べられました。

『小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」に着陸し、微粒子を持ち帰ったことは誠に喜ばしい今年の快挙でした。一時は行方不明になるなど数々の故障を克服し、ついに地球に帰還しました。行方不明になっても決して諦めず、様々な工夫を重ね、ついに帰還を果たしたことに深い感動を覚えました』

　また皇后様は、はやぶさが大気圏に突入した時のことを次のように和歌に詠まれました。

　その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝（かがや）かに明かるかりしと

　多くの人々の祈りが込められた「はやぶさ」に，多くの国民が物体以上の思いを抱きました。</description>
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    <title>郷土史とは</title>
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    <dc:date>2018-03-22T08:18</dc:date>
    <description>&amp;nbsp; &amp;nbsp;&amp;nbsp;宴会の席上で，郷土史の話が出たのでぼくはこう語りました。万葉集にこんな歌があります。信濃なる　千曲（ちぐま）の川の 細石（さざれいし）も 君し踏みてば　玉と拾はむ【歌意】信濃の千曲川の小石だって，あなたがお踏みになったら，玉と思って拾いましょう｡　これは，恋の歌ですね。ぼくは，青春時代にこの歌に出会いましたが，千年以上も前の昔の人々が歌った恋心と現代の我々の思いとが変わらないことに驚きました。　おそらく今の若い人の中にも，彼氏や彼女が落としたﾊﾝｶﾁをまるでその人の分身でもあるかのように大事に胸に抱く人もいるだろうと思います｡　郷土史もそれに似たようなものがあります。路傍の何気ないお地蔵さんも，これがぼくらのおじいさんやおばあさんの時代の悩みを救ってもらいたいとの思いで建てられたものだと知ると一度に身近に感じます。　今までは，ただのお地蔵さんだと思っていたものが，ぼくらのおじいさんやおばあさんはどんな思いでこのお地蔵さんにお参りしていたのだろうかと感情移入してしまいます。それが，郷土史しかも「私の郷土史」ではないかと思います。</description>
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