寒い日が続いていますね。


 1月20日は大寒でした。大寒に入るとぼくの実家では、
毎年「寒施行」を行います。「寒施行」と言うのは,真冬で
餌もなく困っているけもの達に、少しでも食べものを与え
てやろうという心が生んだと風習です。七畝稲荷神社の
奥宮や金比羅さんなどに、小豆飯の握り飯、いりこ、油
揚げなどを供えて廻ります。まるで日本昔話のような
やさしい風習です。


 さて冬は、日本で一番南にある天然雪のスキー場、

五ヶ瀬ハイランドスキー場がお勧めです。山都町の隣町

に位置しています。そして、冷えた身体を温めるには、

国民宿舎「通潤山荘」の浜の湯温泉が最高です。

ただし、スキー場は、天候によって左右されますので、

必ず事前に積雪やゲレンデの様子を問い合わせてくだ

さい。問い合わせ先は


http://www.gokase.co.jp/ski/






10306477_664449813634853_7706578015670766170_n10306477_664449813634853_7706578015670766170_n   早いもので、今年も半分が過ぎましたね。昔の人は、1年を6月晦日と12月晦日の半分に分けて考えました。晦日(みそか)というのは、月の最終日のことです。昔は太陰太陽暦でしたので、29日または30日が月の最終日でした。


 それが、太陽暦に変わり小の月は30日、大の月は31日が晦日となった次第です。よって、6月晦日は6月30日で12月晦日は12月31日のことです。特に12月晦日のことを大晦日と呼んでいます。


 大晦日が新年を迎えるための大切な日であったのとおなじように、六月晦日も、神に年の前半のあいだの無事を感謝し、収穫までの後半年の無事を祈るための物忌みの日、祓いの日と考えられたのです


 昔、宮廷では十二月晦日と六月晦日の年二回、「大祓い」の神事が行われていました。祓いは、日本の神祭りの基本とも言える作法で、大祓いの本来の意義は、年間を通じて最も大切な正月と七月の祖霊迎えの行事を前にして、物忌みを行うことでした。


 そして、十二月のほうを「年越し」と呼ぶのに対し、六月のほうを「名越し(夏越し)」と呼んだのです。その起源は古く、七百一年制定の「大宝律令」に定められています。それは、大内裏の未雀院に天皇に仕える百官の貴族が集まって、国民が犯した罪を除き去るために大祓いの詞をよみあげる儀式でした。この大祓いの行事は次第に民間の神社でも行われるようになりました。

 

 夏越祓いの方法は、人形(ひとがた)にけがれを移して水に流す方法と、「茅の輪くぐり」という方法とがあります。人形を使う方法は、人形に息を吐きかけたりなでたりして災いのもとを人形に託し、陰陽師がこの人形に対して祓いを行ってから御祓川(みそぎがわ)と呼ばれる水辺に流します。


 一方、茅の輪くぐりというのは、神社の境内に茅の輪を設け、参拝者がそれをくぐることによって身のけがれを祓います。そうすることで、夏の恐ろしい伝染病や水の災難を防ぐことができると考えられたのです。

 

  なぜ、夏越祓いとして茅の輪くぐりを行うようになったかは「備後風土記」に書かれている「蘇民将来の話」が由来となっています。あるとき、北海にいた武塔神(むとうしん)が南海にいた女神を訪れようとして道に迷ってしままいまた。そこで蘇民将来(そみんしょうらい)と巨旦将来(こたんしょうらい)の2人の兄弟に一夜の宿を頼みましたが、弟の巨旦将来は金持ちでしたがのに断り、兄の蘇民将来は貧しけれども武搭神を喜んで家に招き入れ、粟殻の座布因に座らせ、粟飯をごちそうして宿を提供しました。武塔神は恩返しとして蘇民将来に「茅の輪」のお守りを授け、蘇民将来の一家の者の腰に着けさせました。

 すると、村に疫病がはやって、みな死に絶えてしまったのに、蘇民将来の一家だけが無事だったのでした。それから、茅の輪は疫病退散、無病患災のシンボルとなったと言う事です。武塔神はスサノオの命の事、備後地方は広島県東部の事です(お話歳時記より)。

ぼくの実家である神社でも、6月30日は朝から茅の輪くぐりが行われています。


 ぼくも、夕方6時過ぎから身体を清め白衣をまとい、陰陽師に変身して大祓の祝詞を唱えながら人形の祓いを行います。一連の神事が終われば、もちろんそのあと直会(なおらい)が行われます。毎年繰り返し行われる年中行事の中に、日本人の原風景を見る思いがします。

 

 

極めて汚も滞無れば穢とはあらじ内外の玉垣清淨と申す 


 きわめきたなきもたまりなければ 

 きたなきとはあらじ

 うちとのたまがき

 きよくきよしともうす

 

二拝二拍手一拝

 5年前に有志5名で作成した「通潤橋 水が渡る橋」が、来年度から全国で使われる小学校の道徳教科書に採用されました。

 元々「南手新井手」と云う古文書を題材に初代山都町立図書館長の前田和興さんが郷土劇を作りました。
それを2代目図書館長下田美鈴さんの発案により紙芝居にアレンジし、そしてさらに絵本にしました。

 今回これが、道徳教科書に採用されたことにより、全国の小学生に布田保之助さんの志を伝える機会が得られ嬉しく思います。19420618_1394256057320888_3907123340765601472_n

 以前の記事になりますが、忘備録代わりにUPしておきます。


棚田景観セミナー

    棚田の歴史をさかのぼる

      ~白糸台地の棚田から見えてきたもの~

                                   講師  熊大文学部教授 吉村豊雄 先生

                     平成25年2月3日(日)午後2時

                     千寿苑に於いて、

                  主催 教育委員会・白糸第一自治振興会

 全国134カ所の棚田があるがそのほとんどの棚田の歴史はわからない。その中で今日に至る棚田の歴史を唯一解明できる棚田が白糸台地の棚田です。白糸台地の棚田には、通潤橋・通潤用水という棚田形成の明確な画期の存在があり,

(1) 鎌倉時代から存在すると思われる既存の水田,これを「古田(こた)」と呼び初期的棚田の段階です。その水源は,「井川さん」と呼ばれる湧水から引かれた古井手で灌漑しています。

次が,(2) 幕末期の通潤橋架橋の時に造られた,南手新井手「上井手(うわいで)、下井手(したいで)」を用...水とする新田(しんた)です。そして,最後が(3) 圃場整備・ポンプ揚水による戦後の新田です。

 初期的棚田の時代の古田60町は、台地の谷筋(谷、迫)に位置し(谷田、迫田)、水田は極小で群集している(長野だけでも2000枚、白糸台地全体では約3万枚)。小さいのは、幅50センチの田もあり、多くは畳12枚の広さだといいます。

 「セマチ」と言う言葉があります。高松市の方言では「畝区」と書き,田圃の1区画のことをこう呼びます。吉村教授は,セマチ(畝町)とは「小さい田」のことで、「コゼマチ」(小畝町)とは、セマチにさらにコを付け小さい田であることを強調した意味だと説明されました。

 「百セマチ」=肥後の「田毎(タゴト)の月」と言う言葉もありますが,これについての説明はインターネット上の情報を以下引用します。「田毎の月」とは、同じ月(同じ月の部分)が複数の田に同時にうつることはなく、月の高度がまだ低い場合、数枚の田にわたって1つの月が分割してうつることです。従って,田毎の月が見られる地形は,次の4つの条件が必要だといわれています。

 1 棚田のように斜面に作られた幅の狭い水田があること。

 2 水がはられた直後か,稲がまだ小さく,水面が十分見える時期であること。(56)

 3 棚田が見渡せる高台が,その向かい側にあること。

 4 月がのぼってから間もない頃か,もうすぐ沈みそうになっている時間であること。(前者であれば西向きの棚田,後者であれば東向きの棚田であることが必要)

 「畦倒し(あぜたおし)」とは,田と田との畦を取り払うことです。「畝町倒し(セマチタオシ」は数枚の田を一枚に開くことです。ぼくらが,登記上使う土地の単位に「筆(ふで)」という言葉があります。土地には地番がつけられ,一つの地番の対象地が1筆の土地と呼んでいます。これとは別に1区画の土地のこと,特に田のことを「一枚」と呼ぶことがあります。上述のセマチのことですね。平坦地では,1セマチが1筆であることが多いのですが,棚田では数セマチが1筆となっています。これを1坪と呼んでいます。「安政申談頭書」のなかに「坪々水不足之節小前々々よりハ如何手数いたし候ハヽ無遅滞通水仕候哉,得斗申談有之度事」とありますが,ここでいう「坪々」が「坪」の事だと知りました。

 上述しましたように初期的棚田の時代の古田は、台地の谷筋に位置し、水田は極小で群集していました。それを畦倒しや畝町倒しをして現在の棚田景観に到るまでの先人の苦労はいかばかりかと思います。

 「耕して天に至る。以て貧なるを知るべし。以て勤勉なるかな」 中国の李鴻章が瀬戸内海の段々畑を見てこう言ったのだそうです。畑は耕して天に到りますが,田は用水の関係上そうはいきません。田より高いところに用水がなければなりません。白糸台地の新田は,そうした畑を田に変えたのだそうです。これが「上畝開(うわのせひらき)」です。資金ゼロから立ち上げられた事業が成立したのもこの上畝開よる資金返済が可能となったためです。

 吉村先生の講義の中で印象深い言葉がありました。それは,「上井手」と「下井手」の同時着工です。「上井手」というのは通潤橋を渡って白糸台地に流れ来て台地の尾根筋を通る水路です。「下井手」というのは,通潤橋上流の五老ケ滝川右岸から取水して白糸台地の谷沿いを走る水路のことです。上井手の水が坪々の田を潤しその余り水は,下井手と合流しさらに下流の坪々の田を潤していきます。一滴水さえ無駄にしないという布田翁の周到な計画です。

  そんな上井手,下井手なのですが,吉村先生に言わせると下井手だけを先に開通させることは可能だったけど,布田翁は同時開通にこだわった言います。それは,白糸台地全体が恩恵を受けるためと下井手だけを先行させたら永年の慣行が乱れるからだというのです。微に入り細を穿つ布田翁の気配りには脱帽します。

過去(2011831日)日記から

 

 夏休み最後の日曜日で,にぎあう熊本市立博物館へ行ってきました。

お目当ては,リュニアルされたプラネタリウムの鑑賞です。

 投映時間まで時間がありましたので,館内の展示物を見学しました。1階部分は,地質・生物・科学などのフロアで,2階が考古学・歴史・民俗学などのフロアです。もう何回も博物館には訪れていますが,どうしても関心のある2階フロアに足が向きます。

 

 民俗学では,よく時間や空間の「境界」を扱います。例えば,空間の境界では,しめ縄を張り巡らし聖と俗とを区分します。しめ縄なんて縄一本なので無視しようとすれば無視して越えることは出来ます。

 しかし,日本では,高い塀や柵をしなくても,簡単な目印を示すだけで,境界がきまり安心できた社会がありました。そこに住む人々がお互いに信頼しあって生きていける社会です。

 帳場もそうですね。低い格子の柵がおかれているだけです。誰でもがそれを乗り越えることができます。しかし,この格子柵の中には,主人と番頭しか入ってはいけないという規範があります。その規範が守れてきたのが日本社会なのです。

 なんと,費用がかからなくて安心安全な社会でしょうね。もう一度,この安心安全な社会を復興させたいものです。

 

 そんな思いで展示物を見学していたら,投映の時間となりました。初め15分程度は熊本のきょうの星空が映し出されました。その後,45分に亘り小惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還に至るまでの物語がナレーションと共に投映されました。

いやー,感動しましたね。途中からぼくは,はやぶさに感情移入してしまい,数々の困難に立ち向かうはやぶさに対して「がんばれ!」とエールを送っていました。大気圏再突入の場面では,自分の身を焦がして地球に戻ってくるはやぶさに涙があふれて止まりませんでした。

 と,同時に先ほど民俗学の展示物を見て感じた日本の心を思い出しました。物体である「はやぶさ」に対して,まるで命あるもののように愛しい心を抱き涙する我々日本人は,「物これ物にあらず」なんだなと思いました。

 

 天皇誕生日に先立つ20101220日の記者会見で、天皇陛下は「はやぶさ」について次のように述べられました。

『小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」に着陸し、微粒子を持ち帰ったことは誠に喜ばしい今年の快挙でした。一時は行方不明になるなど数々の故障を克服し、ついに地球に帰還しました。行方不明になっても決して諦めず、様々な工夫を重ね、ついに帰還を果たしたことに深い感動を覚えました』

 また皇后様は、はやぶさが大気圏に突入した時のことを次のように和歌に詠まれました。

 その帰路に己れを焼きし「はやぶさ」の光輝(かがや)かに明かるかりしと

 多くの人々の祈りが込められた「はやぶさ」に,多くの国民が物体以上の思いを抱きました。
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