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 昨夕、霧雨の中、山都町原の原住家の延寿桜を見て来ました。

 第8代熊本藩主細川斉茲公(細川家当主としては10代目)は、矢部に何度か来ています。寛政3年(1791)に、矢部に狩りに来たときに本陣としたところが、現在の通潤酒造の「御成りの間」です。この「御成りの間」は、後に明治10年(1877)の西南戦争の際に、西郷隆盛が宿泊し軍議を開いた場所としても有名です。

 また斉茲公が文化14年(1817)に矢部に来たときは、中島の原村の原住氏宅に立ち寄りました。その時庭先の桜が満開だったので、斉茲公自らそり桜の枝を切って、床の間にあった竹筒に差し入れました。その花の投げ入れられた姿が実に見事でした。その家の主人の原住桂七は、殿様が茶を飲んでお立ちになった後、写生し庭に挿木しました。原住家では御所桜と名を付けて、玉垣をして大事に育てました。。
六年後にまた斉茲公が来られた時、花が見事に付いていて、そのことを斉茲公に申し上げたところ、非常に喜ばれて「延寿桜」と名を付けられました。斉茲公はその桜を愛でて、そこで飲まれたお茶を桜に注いで熊本にお帰りになりました。
後に斉茲公は、金春流の家元である桜間金太郎に命じて、「延寿桜」のこと題材にした謡曲を作らせられ、延寿桜と共にその謡曲の本が原住家に今も伝えられています。

    

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  一昨日男成神社に、一時(3時間)里帰りした「友成」に会いに行きました。

神前に祭られた「友成」を見て、思わず「お帰りなさい」と心の中で呼びかけました。

 昨年県立美術館の展示室で見た「友成」と、昨日男成神社の神前で見た「友成」とは、背景が違うからでしょうか印象が違いました。

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 説明書きによれば、刃文(刀身の波模様)は直刃(すくは→直線的な刃文)で、太刀(たち→刃を下にしてぶら下げ、馬上で使用することを想定して作られる刀)を磨り上げて、打刀(うちかたな→刃を上にし地上で使用することを想定して作られる刀、そのため太刀に比べて短く反りも浅い)としたものだそうです。


 ちなみに「友成」とは太刀銘で、平安時代の古備前(岡山県東部)鍛冶の刀工の銘です。この名跡は後代まで引き継がれ、この太刀は鎌倉期のものであろうとされています。


 昨日のメインは「友成」でしたが、社前には修復を終えた熊本藩第8代藩主細川齋茲公揮毫による「男成社」社号条幅や九曜紋入り漆塗箱も展示されていました。すばらしい書であるとともに、その修復の完成度の高さに驚きました。修復前の写真と見比べ、よくぞここまで立派に修復したものだと思いました。


 細川齋茲公と言えば、五老ケ滝や千滝などの領内名勝図鑑の作成を命じた殿様であり、矢部には何度もおいでに

なっています。狩りにおいでになったときに、昨日花見をしました山神山で祭りをされています。


 また、本日花見に行く予定の山都町原の原住家の「延寿桜」にも、たいへんゆかりのある殿様でもあります。


 山都町食農観光塾最終発表会を見に行きました。今回で三期生となります。それぞれが、山都町活性化のための企画を考え発表し、実現へ向けて行動を開始します。

 前回行われた矢部高校生と熊本県立大学生による「山都町地域活性化プランコンテスト」もそうですが、こうやって若い人たちがまちづくりに積極的に関わってくれることがとても頼もしく嬉しく思います。

 今回もインターネットを使った情報発信などが紹介されました。なかには、インターネットは手段に過ぎないとのご意見をお持ちの方もいらっしゃるかも知れません。...

 しかし、情報発信するには、それだけ山都町のことをよく知らなければ情報も発信できません。そういう意味では、インターネットによる情報発信の効果以上に、その前段階の「山都町のことを知る」と言うことは、有意義なことだと思います。

 何にもないと思っていた山都町が、何にもないこと自体が宝になったり、あるいは当たり前だと思っていたことが当たり前でなく「有り難い」ことだと気づく。こういうことってよくありますよね。

 いまやっと、若い人たちの中にもそういう眼で地域を見直してくれる人たちが増えてきたことが嬉しいです。
 「矢部郷浜町は、東肥後山中にあって、さらに東行すれば人煙のまれな日向の山岳地帯に入る。
浜町は、山間の集落ながら良質の水にめぐまれ、江戸後期ごろから醸造業がさかんになり、なかでも備前屋という造り酒屋が屋敷や倉など最も大きく、商いも手びろくやっていた。」

これは、司馬遼太郎著「翔ぶが如く」の一小節です。「備前屋」というのは、現在の「通潤酒造」のことです。
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明治10年3月田原坂の戦いに敗れた薩軍は、同年4月21日に備前屋、現在の山都町浜町54番地・株式会社通潤酒造に於いて軍議を開き「人吉に籠ろう」との結論に至りました。

一昨日の「日向往還歴史ウォークin山都町・浜町阿蘇家散策コース」では、この備前屋が大きな目玉でした。

ここには、通潤酒造の広報担当菊池一哲さんが居ますので、彼に説明をお願いしました。お寺の副住職でもある菊池さんは、さすが慣れたものです。そつのない、しかも名調子の説明で、思わずぼくもその説明に聞き惚れてしまいました。ぼくも、彼ほど名調子でガイドができればと彼の語りを羨ましく思いました。

「翔ぶが如く」では、浜町を去る西郷のことを次のように記しています。

「西郷が、肥後矢部郷浜町を発ったのは、四月二十二日である。
粗末な竹籠に乗り、人夫が前後からかついだ。重いために、たえず六人が予備としてついて歩き、肩代わりした。肥後・日向さかいまでの数里は、すべて坂だった。その行路を、菜種梅雨のあわい雨が、やむことなく濡らした。(文春文庫・司馬遼太郎著「翔ぶが如く(九)」

 昨年の矢部高校の文化祭で、地元小中高校生による朗読劇「通潤魂」が披露されました。

あいにく私は、当日所用で観ることができなかったのですが、昨日図書館ホールに於いて、その時のDVD上映会があり、観ることができました。


 感動しましたね。布田保之助さんの立志から通潤橋の完成まで、小中高校生がそれぞれの役割を分担して朗読し、さらには文楽風に浄瑠璃と三味線まで加わり、「通潤魂」を表現しました。


 こうして、地元小中高校生により「通潤魂」が伝えられていくことがとても嬉しいです。願わくば、一度だけで終わることなく、これからも末永く後世に伝えられることを願います。

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