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山都町郷土史伝承会 2015年03月17日 08時21分59秒
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Re:掲示板です。
目丸の大多良村の由来について教えて下さい。
中村好太郎
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2016年10月04日 05時52分12秒
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目丸の大多良村について
「目丸の大多良村の由来について教えて下さい。」との問合せがありました。以下諸先生の説を紹介します。
明和2年(1765)の「国郡一統誌」には,黒谷,小迫,市ノ尾,居屋敷,井野,出崎,金地,西小(オ),中小,尾多羅(多太良)崎,菅頭,鹿出蔵,中尾牟連,大石原及び貫原の15の目丸の小村が記されています。
地名研究家の倉岡良友先生の説によれば,尾多羅(大多良)崎の「尾・崎」は尾根筋台地の終わり,末端,先端だ表す言葉だそうです。「タラ」は,マライ語の,平らな,平坦,台地上が緩斜面の意味もある。その反対にタラの類似音クラが転訛したもので崖地,高くそびえた断崖地形に名付けられた崖地名だとされています。従って,尾多羅(大多良)崎は,山裾の尾根筋の台地上が平で緩斜面で,その先端は急崖地形となっていることを表現した地名だと先生は述べられています。
その一方で先生は,カナジ,オオタラ(タタラ)の表音語から製鉄に由来するものと考えられるとも述べられています。タタラ(大多良)は製鉄精錬の炉で鞴(吹子)のことを言います。
亡くなられた郷土史家の井上清一先生は,別の観点から大多良の由来について説明されています。先生の説明によれば,アルファベットの「O」の発音が付く地名には,木地師にまつわるところが多いと言われます。
大多良はもちろんですが,青石は通常は「あおいし」と呼んでいますが,地元の古老は「おし」と呼ぶんだそうです。この青石や大平,笈石等々「O」で始まります。人の名前で言えば「小椋」,「大倉」,「大庫」等々もですね。ちなみに目丸には木地師の子孫がいたことが確認されています。
田上 彰 2016年10月04日 08時42分46秒
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2016年10月05日 13時58分44秒
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目丸の久吉
目丸の話しが出たついでに,目丸にまつわるお話しを一席紹介します。
天正13年(1585)島津軍が肥後に攻め入り,大宮司親子は目丸に隠れ住みました。豊臣秀吉は,島津の北上を止めるため九州征伐を行い島津を撤退させました。
目丸では,そのときの喜びの象徴として,「芝居が何でも、秀吉でないと承知せん」という言葉あります。例えば,忠臣蔵の場面に突如鎧を来た侍が出て来て、「羽柴筑前守久吉(秀吉のこと)、用は無けれども罷り通る」と言って舞台をすーっと通って行くと部落の人達はわーっと拍手喝采をして、その後何も無かったかのように通常の芝居に戻ります。
このように目丸の人達は「何にでも出ることを目丸の久吉」と言っていました。それが転じて,いろんな役職に就く人のことも「目丸の久吉」と言っていました。
それほど,島津を撤退させた秀吉に感謝した目丸の人ですが,後に大宮司阿蘇惟光は,幼くして秀吉によって自害させられました。
田上 彰 2016年10月06日 10時36分21秒
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校歌について
浜町小学校校歌
1 岩尾の城の城跡に
轟川の川音に
今も残れる先人の
尊き技をしのびつつ
吾れ等学友血は踊る
2 緑に包む山脈(やまなみ)や
黄金(こがね)に満(みつる)田園の
生ける姿に里人の
励める姿を望みつつ
吾れ等学友腕は鳴る
ぼくの母校旧浜町小学校の校歌は山口白陽氏による作詞です。岩尾の城とは、通潤橋の北側に位置する岩尾城、通称「城山」のことです。今も残れる先人の尊き技とは「通潤橋」のことです。
作詞も良いですが作曲も素晴らしいです。この詩を見ると今でもメロディーが聞こえて来そうです。
旧浜町中学校の校歌も山口白陽氏による作詞です。
浜町中学校校歌
1 雲白く山脈青く
千滝は音もとどろに
谷遠く川は光れり
ここぞ矢部われらが郷土
浜町中学
さきがけて自ら学ぶ
2 石一つ一つの命
通潤の橋を築きて
大空に虹とかけたり
ここぞ矢部われらが郷土
浜町中学
おしみなく勤しみ励む
3 霧ふかき丘の彼方に
茶つみ唄声も明るく
明け暮るる日々の豊けさ
ここぞ矢部われらが郷土
浜町中学
肩くみて理想に進む
https://www.youtube.com/watch?v=7WEpEDSXJVk
残念ながらこの2校とも、小学校は矢部小学校に、中学校は矢部中学校に統合され、思い出深い校歌は無くなり、新しい校歌となりました。
我が母校で唯一矢部高校校歌だけは、今でも残って歌い続けられています。作詞は五高の八波教授で、作曲は熊師の末次教授です。
この校歌は1番は男子が歌い、2番は女子が歌う。そして3番を男女合唱で歌います。
1 阿蘇の噴煙遠方(おち)に見て、
大矢の山や目丸山
内大臣の名におえる
端山繁山いと繁く
山の気に触れ霊に触れ
矢部高健児
意気高し
2 布田の翁がその昔
思念凝らせし石橋に
水を通して民草を
永遠(とわ)に潤し給いたる
聖徳偉業これぞこれ
矢部高女子の理想なる
3 見よや高原気は澄みて
神霊こもる学びやに
学理実習いそしみて
至誠を神に誓ひつつ
通潤魂を発揮して
国利民福弥増さん
さすが、通潤橋のある町ですね。小学校から高校まで、すべての校歌の歌詞に通潤橋が織り込まれています。学生時代は歌詞の意味は、ほとんどわからずに歌っていましたが、なかなか良い校歌ですね。
特に、矢部高校校歌の3番の歌詞に「神霊こもる学びやに」とありますが、もちろんこの校歌は「浜の館」が発掘される前に作られたものなのに、なぜこんな歌詞を作詞できたのでしょうか?!
まるで「浜の館」が発掘されることを予言していたかのようです。
もっともこの地には、発掘されるまでは「この場所には金の鶏が埋まっており、毎年、年の晩には鳴く」と云う伝承が伝わっていました。それが、いざ発掘したら金の鶏ではなく、鳥型三彩水注などの宝物が出てきた次第です。それも、発掘調査日の最終日にです。たいへんドラマチックな発掘でした。
田上 彰
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2018年01月31日 08時57分26秒
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Re:校歌について
> 浜町小学校校歌
>
> 1 岩尾の城の城跡に
> 轟川の川音に
> 今も残れる先人の
> 尊き技をしのびつつ
> 吾れ等学友血は踊る
>
>2 緑に包む山脈(やまなみ)や
> 黄金(こがね)に満(みつる)田園の
> 生ける姿に里人の
> 励める姿を望みつつ
> 吾れ等学友腕は鳴る
>
> ぼくの母校旧浜町小学校の校歌は山口白陽氏による作詞です。岩尾の城とは、通潤橋の北側に位置する岩尾城、通称「城山」のことです。今も残れる先人の尊き技とは「通潤橋」のことです。
>
> 作詞も良いですが作曲も素晴らしいです。この詩を見ると今でもメロディーが聞こえて来そうです。
>
> 旧浜町中学校の校歌も山口白陽氏による作詞です。
>
> 浜町中学校校歌
>
>1 雲白く山脈青く
> 千滝は音もとどろに
> 谷遠く川は光れり
> ここぞ矢部われらが郷土
> 浜町中学
> さきがけて自ら学ぶ
>
>2 石一つ一つの命
> 通潤の橋を築きて
> 大空に虹とかけたり
> ここぞ矢部われらが郷土
> 浜町中学
> おしみなく勤しみ励む
>
>3 霧ふかき丘の彼方に
> 茶つみ唄声も明るく
> 明け暮るる日々の豊けさ
> ここぞ矢部われらが郷土
> 浜町中学
> 肩くみて理想に進む
>https://www.youtube.com/watch?v=7WEpEDSXJVk
>
>
> 残念ながらこの2校とも、小学校は矢部小学校に、中学校は矢部中学校に統合され、思い出深い校歌は無くなり、新しい校歌となりました。
>
>我が母校で唯一矢部高校校歌だけは、今でも残って歌い続けられています。作詞は五高の八波教授で、作曲は熊師の末次教授です。
>この校歌は1番は男子が歌い、2番は女子が歌う。そして3番を男女合唱で歌います。
>
>1 阿蘇の噴煙遠方(おち)に見て、
> 大矢の山や目丸山
> 内大臣の名におえる
> 端山繁山いと繁く
> 山の気に触れ霊に触れ
> 矢部高健児
> 意気高し
>
>2 布田の翁がその昔
> 思念凝らせし石橋に
> 水を通して民草を
> 永遠(とわ)に潤し給いたる
> 聖徳偉業これぞこれ
> 矢部高女子の理想なる
>
>3 見よや高原気は澄みて
> 神霊こもる学びやに
> 学理実習いそしみて
> 至誠を神に誓ひつつ
> 通潤魂を発揮して
> 国利民福弥増さん
>
> さすが、通潤橋のある町ですね。小学校から高校まで、すべての校歌の歌詞に通潤橋が織り込まれています。学生時代は歌詞の意味は、ほとんどわからずに歌っていましたが、なかなか良い校歌ですね。
>
> 特に、矢部高校校歌の3番の歌詞に「神霊こもる学びやに」とありますが、もちろんこの校歌は「浜の館」が発掘される前に作られたものなのに、なぜこんな歌詞を作詞できたのでしょうか?!
>まるで「浜の館」が発掘されることを予言していたかのようです。
>
> もっともこの地には、発掘されるまでは「この場所には金の鶏が埋まっており、毎年、年の晩には鳴く」と云う伝承が伝わっていました。それが、いざ発掘したら金の鶏ではなく、鳥型三彩水注などの宝物が出てきた次第です。それも、発掘調査日の最終日にです。たいへんドラマチックな発掘でした。
>
三校共私の母校です。
懐かしく、自慢の故郷です。
岡山に住む同級生が確認してきたので、紹介させて頂きました。
篤岡 小百合
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2019年01月14日 22時30分26秒
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浜町と馬見原の初市について
この時期、各地で初市開催のニュースを聞きます。ここ山都町でも、今月24日と25日に蘇陽地区の馬見原商店街一帯で、そして27日28日には、矢部地区の新町正午町一帯で初市が開かれます。
子供の頃は、春休みと共に訪れるこの初市がとても楽しみでした。露天商だけではなく、ガマの油売りやバナナのたたき売り、ろくろ首、さらにはサーカスまでやって来たことがあります。
さて、その初市の歴史ですが、中世のころに村や町が形成され、農業や手工業なども発達しました。それにともなって市も発達しました(農業や手工業が発達すると売買や交換する物が増えます。)。
市とは、物資の交換取引が行われる場所のことです。寺社門前や交通要地に三斎市や六斎市など呼ばれる定期市が開かれました。三斎市というのは月に3回開かれる市のことで、六斎市というのは同様に月に6回開かれる市のことです。
馬見原では、天和3年(1683)に三斎市が許され、江戸後期になると六斎市が許され、馬見原の古町では5.6.15.16.25.26日が、新町では朔.11.21日が市日だったそうです。
一方浜町では、7.17.27日の7のつく日がその開催日でした。特に2月7日は初市、7月7日は七夕市、10月27日は大市といって非常なにぎわいを呈していたそうです。当時のにぎわいの様子として矢部町史には「その日は、近在の村々からはもちろんのこと、熊本、川尻、宇土、小川、松橋、八代など平生取引の行われている地方からも商人が集まったし、さらに、日向臼杵藩の那須からも山道をものともせずに出て来て交易していた。」と書いてあります。当時の市は、たいへん賑わっていたようですね。
現在は車社会になってだいぶ社会の様子が変わってきていますが、数十年前までは、町史に書いてあるように、お隣の宮崎県からも九州山地の山々を超えてこの浜町まで買い物にやって来たようです。なお、町史で紹介されている2月7日、7月7日、10月27日は何れも旧暦ですから新暦だと約1ヶ月遅れとなります。
小一領神社は、昔は新町にあり柳本大明神と呼ばれていました。新町には妙見の大ケヤキと呼ばれる国指定(現在は町指定)の天然記念物がありますが、その根元には湧水が見られます。ここが、柳本大明神の「東の御手洗」です。御手洗というのは、神社にお参りするとき手を洗い口をすすいで身を清める場所のことです。
一方の西の御手洗は、下馬尾の浜町橋際にありました。今は火事で燃えてなくなりましたが、そこにも大きなケヤキがありました。下馬尾というのは、その柳本大明神の社前を通過する際に下馬したのでそういう地名がついたと伝えられています。現在の浜町の中心部はそのように広いお宮の境内地でした。よって、昔は宮原町と呼ばれていました。
そんな、境内地の一郭に初めて店ができたのは慶長17年(1612)のことだといわれています。その時の商人の名前も分かっています。愛籐寺の商人孫左衛門と長左衛門をはじめとする人々が愛籐寺からこの宮原に移り住んで店を構えました。その店を構えた場所は、現在の野田病院と千滝川との間の通称下町と呼ばれるところです。
今述べましたように、愛籐寺には浜町に店ができる以前から愛籐寺城の城下町としての店がありました。慶長17年に愛籐寺城が取り壊されたことにより、城下町にいた商人達が宮原町、現在の浜町に引っ越してきたのです。
同様に、別当が居た入佐にも店があったようです。現在の潤徳小学校北側の田園一帯です。そこら一帯には上町、下町、塩買所や秤屋などの地名が残っています。
ちょっこ、話が横道にそれますが入佐には「でごや」と言う屋号があります。江戸時代は、どこにでも自由に店を出してよいわけではありません。特に、農村に店を構えることは百姓の消費を拡大することであり藩にとっては年貢納めに支障を来たらすとして、厳しく取り締まっていました。
そこで、昼間だけ店を開け、夜は店を閉めて帰ると言ったような、いわゆる出張販売みたいな形で商売が行われ、それを「でごや」と呼んでいたみたいです。漢字をあてると「出小屋」になるのではないかな思います。
さて、慶長17年(1612)に浜町に店ができて、以後だんだんと発展していくのですが、特に大きく発展した時期は江戸時代の元禄年間です。元禄15年(1702)に横町及び新町ができ、一気に町が発展しました。その原因は、内大臣を初めとして緑川沿いの林業の仕事が増えたからだと言われています。山仕事のためにたくさんの人々が熊本の町から矢部に移住してきました。人が増えれば物もよく売れます。冒頭紹介しました初市を初めとする三斎市が浜町で開かれたのも、このころからではないかと思います。また、このころの浜町には奉行も置かれていました。
田上 彰
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2018年03月22日 08時11分31秒
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棚田景観セミナー
ずいぶん以前の話しですが,平成25年2月3日山都町教員委員会・白糸第一自治振興会共催で熊大文学部教授吉村豊雄先生による
「棚田の歴史をさかのぼる
~白糸台地の棚田から見えてきたもの~」
と云うタイトルでセミナーが催されました。
そのときのセミナーの内容を記します。
全国134カ所の棚田があるがそのほとんどの棚田の歴史はわからない。その中で今日に至る棚田の歴史を唯一解明できる棚田が白糸台地の棚田です。白糸台地の棚田には、通潤橋・通潤用水という棚田形成の明確な画期の存在があり,
(1) 鎌倉時代から存在すると思われる既存の水田,これを「古田(こた)」と呼び初期的棚田の段階です。その水源は,「井川さん」と呼ばれる湧水から引かれた古井手で灌漑しています。
次が,(2) 幕末期の通潤橋架橋の時に造られた,南手新井手「上井手(うわいで)、下井手(したいで)」を用...水とする新田(しんた)です。
そして,最後が(3) 圃場整備・ポンプ揚水による戦後の新田です。
初期的棚田の時代の古田60町は、台地の谷筋(谷、迫)に位置し(谷田、迫田)、水田は極小で群集している(長野だけでも2000枚、白糸台地全体では約3万枚)。小さいのは、幅50センチの田もあり、多くは畳1、2枚の広さだといいます。
「セマチ」と言う言葉があります。高松市の方言では「畝区」と書き,田圃の1区画のことをこう呼びます。吉村教授は,セマチ(畝町)とは「小さい田」のことで、「コゼマチ」(小畝町)とは、セマチにさらにコを付け小さい田であることを強調した意味だと説明されました。
「百セマチ」=肥後の「田毎(タゴト)の月」と言う言葉もありますが,これについての説明はインターネット上の情報を以下引用します。
「田毎の月」とは、同じ月(同じ月の部分)が複数の田に同時にうつることはなく、月の高度がまだ低い場合、数枚の田にわたって1つの月が分割してうつることです。従って,田毎の月が見られる地形は,次の4つの条件が必要だといわれています。
1 棚田のように斜面に作られた幅の狭い水田があること。
2 水がはられた直後か,稲がまだ小さく,水面が十分見える時期であること。(5~6月)
3 棚田が見渡せる高台が,その向かい側にあること。
4 月がのぼってから間もない頃か,もうすぐ沈みそうになっている時間であること。(前者であれば西向きの棚田,後者であれば東向きの棚田であることが必要)
「畦倒し(あぜたおし)」とは,田と田との畦を取り払うことです。「畝町倒し(セマチタオシ」は数枚の田を一枚に開くことです。登記上使う土地の単位に「筆(ふで)」という言葉があります。土地には地番がつけられ,一つの地番の対象地が1筆の土地と呼んでいます。これとは別に1区画の土地のこと,特に田のことを「一枚」と呼ぶことがあります。上述のセマチのことですね。平坦地では,1セマチが1筆であることが多いのですが,棚田では数セマチが1筆となっています。これを1坪と呼んでいます。
「安政申談頭書」のなかに「坪々水不足之節小前々々よりハ如何手数いたし候ハヽ無遅滞通水仕候哉,得斗申談有之度事」とありますが,ここでいう「坪々」が「坪」の事だと知りました。
上述しましたように初期的棚田の時代の古田は、台地の谷筋に位置し、水田は極小で群集していました。それを畦倒しや畝町倒しをして現在の棚田景観に到るまでの先人の苦労はいかばかりかと思います。
「耕して天に至る。以て貧なるを知るべし。以て勤勉なるかな」 中国の李鴻章が瀬戸内海の段々畑を見てこう言ったのだそうです。畑は耕して天に到りますが,田は用水の関係上そうはいきません。田より高いところに用水がなければなりません。白糸台地の新田は,そうした畑を田に変えたのだそうです。これが「上畝開(うわのせひらき)」です。資金ゼロから立ち上げられた事業が成立したのもこの上畝開よる資金返済が可能となったためです。
吉村先生の講義の中で印象深い言葉がありました。それは,「上井手」と「下井手」の同時着工です。「上井手」というのは通潤橋を渡って白糸台地に流れ来て台地の尾根筋を通る水路です。「下井手」というのは,通潤橋上流の五老ケ滝川右岸から取水して白糸台地の谷沿いを走る水路のことです。上井手の水が坪々の田を潤しその余り水は,下井手と合流しさらに下流の坪々の田を潤していきます。一滴水さえ無駄にしないという布田翁の周到な計画です。
そんな上井手,下井手なのですが,吉村先生に言わせると下井手だけを先に開通させることは可能だったけど,布田翁は同時開通にこだわった言います。それは,白糸台地全体が恩恵を受けるためと下井手だけを先行させたら永年の慣行が乱れるからだというのです。微に入り細を穿つ布田翁の気配りには脱帽します。
田上 彰 2019年10月15日 11時56分15秒
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布田保之助さんの志
郷土の偉人布田保之助さんのことは、通潤橋と共に多くの方に知られていますが、その志の原点となった保之助さんのお父さん市平次さんについては余り知る人がいないのではないでしょうか。
布田家は歴代惣庄屋の家系ですが、市平次さんは17歳にして既に父の代役を仰せつかり、18歳の寛政4年には岩尾城に若宮神社を勧請し、阿蘇家代々の御霊を祭られました。岩尾城下に位置する桐原は布田家の知行地で、今日に至るも市平次さんの遺志を継いで桐原の人々によってこの若宮神社(城山神社)は祭られています。
市平次さんはいろいろな仕事を成し遂げられていますが、そのなかでも異色なのが、矢部郷の実測図を自ら測量して作成されたことです。そんな異才をもった市平次さんですが、文化7年2月28日わずか36歳でに亡くなられました。
ところが、布田保之助さんの手記には、(実は二十日)と記し「六ヶ年勤上候処病気差起り文化七年二月病死仕候」と記されていると云います。文化7年2月20日、その後の布田保之助さんの生き様に大きな影響を与える事件が生じました。
その日は、御船の御郡代役所で各手永の惣庄屋が集まり、郡内の年中行事その他年間の計画について会議が行われました。その会議の中で、市平次さんは、「矢部郷は交通不便なところで、事ある毎に郡の仕事を仰せつかると地元の仕事ができなくなりますので、しばらく夫役を免除していただきたい。免除していただいた分、その夫役を矢部郷発展のために使わさせて下さい。」と申し出ました。
当時、甲佐、御船の川塘が洪水のために崩れると、その割当夫役、災害夫役を出せと言って来ます。御船でも、甲佐でも、鯰でも、沼山津でも日帰りで夫役に出れます。ところが矢部は、菅尾境の安方、長成(現在の清和地区)から行く者は片道だけでも1日かかります。往復2日掛かりです。向こうで10日間の割り振りがされると、12日掛かるわけです。どうしても向こうで寝泊まりして夫役を務めなければなりません。仮に宿賃を浮かせるためにお寺に泊まっても、お礼の夫役奉公をしなければなりません。このように余所の夫役に取られるために、矢部手永では道路の手入れが出来ません。
道路の手入れが出来ないと、当時はすべて駄載ですので、馬の歩幅は、ほとんど変わらないので、馬の足跡で道がガタガタになります。これを「馬しゃっくり」と言います。馬の通る道は、春秋の道普請でこれを削って均して通りやすくします。ところが、その夫役に出る人が郡の夫役にとられ足りないのです。結果、日向往還を初め矢部じゅうがこのような悪路です。悪路であるから、それだけ交通の便利が悪いし荷物も上って来ない。道路に恵まれないと文化も遅れます。市平次さんが惣庄屋会議で川普請のための夫役免除を願い出たのは、このような不合理を無くすためだったのです。
幸いその会議では、爾後矢部手永の百姓は、他手永の夫役に従事することが免ぜられました。市平次さんは、長年の悲願が叶い大喜びで家路をたどられました。途中、日が暮れたので中島の庄屋宅に泊まることにしました。某惣庄屋が、市平次さんの跡を御船から追っかけて来ました。その惣庄屋が云うには、「矢部だけが夫役を免ぜられたことについて他の惣庄屋から不満が生じ、布田氏への仕返しが謀られている。悪いことは言わない、今一度引き返して夫役免除申出を撤回した方が良い。」と忠告しました。
その夜、市平次さんは宿泊先の庄屋宅で、夫役免除は矢部手永75ケ村の公の問題、恨みを買うのは個人の問題だと熟慮の上、腹をかき切って自らの命を絶ちました。保之助さんがわずか10歳の年です。藩へは、28日病死と届け後任の惣庄屋は市平次さんの弟・太郎右衛門さんが任じられました。
保之助さんが父・市平次さんが死んだほんとうの原因を知ったのは保之助さんが叔父・太郎右衛門さんに連れられ御船の郡代へあいさつへ行った帰りだと言います。太郎右衛門さんは、御船甲佐など水の豊かな田畑を保之助さんに見せ万坂峠に至ります。そして、峠から矢部郷をながめながら、「実は。おまえの父はこの矢部郷のために自らの命を捧げて死んだ。」と伝えたと言います。そのとき、保之助さんは「矢部の空へ向かって父上!」と叫んだであろうとおっしゃるのはぼくの師匠である井上清一先生です。
脚色もだいぶ混じっているかとは思いますが、元服を迎えた保之助さんの心には、父の遺志を受け継ぐ覚悟がそのときできたのではないかとぼくも想像します。
田上 彰 2019年10月17日 08時35分35秒
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八勢橋と矢部手永
1 石高について
矢部手永の石高(こくだか)は、1万9236石7斗2升6合2勺2才です。石高とは、田畑や屋敷などの土地の価値を「米の生産量」に換算したものです。
この石高は、石盛(こくもり)に面積を乗じて算出します。石盛とは、検地における田畑屋敷の反あたりの見積生産高のことです。石盛の基準は反当たり、上田が1石5斗、中田が1石3斗、下田が1石1斗、下々田が9斗です。畑は、上畑が1石1斗、中畑が9斗、下畑が7斗です。屋敷も石盛りの中に入っており1反当たり1石1斗としています。このような基準で矢部手永78カ村全部の石高が1万9236石7斗2升6合2勺2才です。
上田の反当1石5斗を坪で換算しますと5合になります。この5合というのが大人1人の1日分の食糧だとされています。奈良朝時代の1反は360坪でした。だから、1日に5合として1年間は食べる分があります。大人1人の消費量が1反作れば賄えるという基準で年貢が決められていたそうです。
本当に,一日5合食べていたという説もあれば,否あくまでも5合という数字の根拠が下級勤番武士の給与の計算基準値から来ているので実際に食べる数字とは関係ないと云う説もあります。
2 請免、上米、1分半米について
文政9年(1826)の矢部手永の請免(うけめん)は5314石6升、上米(あげまい)は459石9斗6升、1歩半米は288石5斗6升で、合計6062石5斗8升です。
請免とは、過去数十年の平均をとつて、特別の凶作でない以外は、豊凶の差別なく一定の免率(上記文政9年の場合は平均2ツ76「27.6%」)によって納める年貢のことです。上米とは上納米のことで、1歩半米とは凶作その他の用心の備えのための税のことです。
3 米俵について
米俵1俵というのは普通4斗ですが、それでは馬が運べないので、当時3斗5升を入れる大俵と3斗2升を入れる小俵とがありました。矢部手永からの年貢米は人馬で運ぶ都合上、小俵が用いられました。よって、矢部手永の年貢米6062石5斗8升を俵詰めしますと1万8946俵となります。
4 年貢米の輸送と夫役について
これだけの米が、八勢の目鑑橋を通って運ばれていました。八勢橋が出来る前は、人間が丸木橋のようなところを馬を引いて渡り、馬は川の中を渡っていました。そんな状態で川を渡りますので少し増水すると危なくて川を渡れません。せっかく八勢まで運んでも、その米を持ち帰らなければなりませんでした。後二里も行けば木倉の郡代の屋敷まで届けられるのに、また持ち帰るというように矢部の人々はたいへん年貢の輸送に苦労しました。
こういう年貢米の輸送は夫役で出ていました。藩に納める税金ですから、当時は女や子どもは夫役を務めることができません。夫役の人数は決められており、文政8年の記録によると上益城全体で1万2626人だそうです。16才以上40才までの男子が夫役として1年に2回ずつ出なければならない決まりです。矢部の夫役の人数が3166人、甲佐が2403人、木倉が1803人、沼山津が3160人、鯰が2094人、内46人が「土山瓦師殿」とあります。これは、益城の土山の瓦焼の人々が熊本城の瓦を夫役として出夫していたからです。
馬一頭に対して米俵2俵を担わせて,1人で馬3頭を引っ張ると1度に6俵しか運ぶことができません。矢部手永の年貢米1万8946俵をこの6俵で割ると3157人の夫役を要します。矢部の夫役人数3166人からこの3157人を差し引いたらわずか9人しか残りません。よって、矢部手永の夫役は、年貢米輸送だけで消費してしまうことになります。年貢米の輸送だけでこれだけかかるのですから、決められた夫役では足りないわけです。
5 布田市平次の死の真相について
ところが、もっと困ったことは、甲佐、御船の川塘が洪水のために崩れると、その割当夫役、災害夫役を出せと言って来ます。御船でも、甲佐でも、鯰でも、沼山津でも日帰りで夫役に出れます。ところが矢部は、菅尾境の安方、長成から行く者は片道だけでも1日かかります。往復2日掛かりです。向こうで十日間の割り振りがされると、12日掛かるわけです。どうしても向こうで寝泊まりして夫役を務めなければなりません。仮に宿賃を浮かせるためにお寺に泊まっても、お礼の夫役奉公をしなければなりません。このように余所の夫役に取られるために、矢部手永では道路の手入れが出来ません。
道路の手入れが出来ないと、当時はすべて駄載ですので、馬の歩幅は、ほとんど変わらないので、馬の足跡で道がガタガタになります。これを「馬しゃっくり」と言います。馬の通る道は、春秋の道普請でこれを削って均して通りやすくします。ところが、その夫役に出る人がたった9人では、どうにも為す術がありません。日向往還を初め矢部じゅうがこのような悪路です。悪路であるから、それだけ交通の便利が悪いし荷物も上って来ない。道路に恵まれないと文化も遅れます。布田保之助の父、布田市平次が、文化7年2月20日の惣庄屋会議で川普請のための夫役免除を願い出て自刃したのは、このようなの不合理を無くすためだったのです。
6 土山瓦
八勢橋ができたことで、矢部から年貢米を運ぶ人らが夜でも安心して通れるようになりました。御船の木倉に米を届けると登り荷を積んで、登り荷が無い場合は「土山瓦」を積んで帰りました。御船より益城方面へ一里程足を延ばすと、益城町小池に土山というところがあります。ここでは、益城町史に「一帯の水田下に広がる良質の粘土と、村の裏山である飯田山から採集できる燃料の松などの良い条件に恵まれて、瓦造りが営まれた。」とあるように「土山瓦」が取れます。この土山瓦は、上述しましたとおり,熊本城の屋根瓦にも使われました。
ちょっと余談になりますが、日本の石橋を守る会の上塚会長からこんな話を聴きました。昭和33年、上塚会長が城南町の豊田小学校にお勤めの頃の話です。生徒の保護者の自宅を訪問した上塚先生は、「ご主人は在宅ですか」と尋ねたところ、そこの奥さんから「土山の瓦焼きに行きました。」と返事があり、先生はその言葉とおりに真に受け帰られたそうです。ところが、自宅へ帰りそのことを先生のお母様に話されたところ、「それは土葬された、すなわち亡くなったことを指すんだ」と教えられたと、50年以上も前の話を懐かしくお話しして頂きました。先生がお住まいになる城南町でこのような口承が残っていると言うことは、土山と城南町の中間地である御船町にもこのような言い伝えが残っているかも知れません。さらには、もしたしたら、この口承文化が八勢橋を渡り矢部郷にも伝えられたかも知れません。大変興味深いお話しだと思います。
7 八勢橋架橋の影響
さて、矢部の人々らは、帰りの荷でこの土山瓦を馬に積んで帰りました。馬1頭で1坪分の瓦が積めるそうです。今まで、板葺きだった浜町の商店が瓦が手に入るようになり丈夫な居蔵造りとなり一種の防火帯ができました。
浜町では、このように八勢橋ができたのを機に屋根が瓦葺きとなり火災が減ったといいます。また,八勢橋の架橋により、雨の日でも夜でも安全に橋を渡れるようになりました。その結果,年貢米の輸送だけではなく、その他の物流や文化の交流にも大きな影響を与えました。
田上 彰 2020年01月08日 08時09分48秒
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