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2025年08月12日 18時58分51秒
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阿蘇氏家臣団の史料について
以前郷党歴代拾穂記について質問させて頂いた志賀と申します。度々お尋ねして恐縮です。現在阿蘇氏家臣団の詳細について調査を行っている所でして、阿蘇氏家臣たちの名前が網羅的に書かれている史料などご存知であれば伺いたいです。矢部町史と郷党歴代拾穂記は目を通しました。とりわけ田上氏や上田氏について分かることがあれば嬉しいのですが。
志賀誠 2025年06月20日 17時10分39秒
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Re: 阿蘇氏家臣団の史料について
拾集昔話1 渡邊玄察著 に載っています。
http://gensatsu.web.fc2.com/jyuusyuumukasigatari.html
山都町郷土史伝承会 2025年06月20日 19時04分54秒
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阿蘇氏家臣団の史料について
以前郷党歴代拾穂記について質問させて頂いた志賀と申します。度々お尋ねして恐縮です。現在阿蘇氏家臣団の詳細について調査を行っている所でして、阿蘇氏家臣たちの名前が網羅的に書かれている史料などご存知であれば伺いたいです。矢部町史と郷党歴代拾穂記は目を通しました。とりわけ田上氏や上田氏について分かることがあれば嬉しいのですが。
志賀誠 2025年06月20日 17時10分43秒
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上畑の大杉
当方、秋に熊本県の巨樹について調査をする予定です。熊本空港から1日圏内、環境省巨樹巨木林データベース記載の巨樹の中から、候補を選んでいるところです。山都町内でもいくつか候補を挙げているところですが、上畑の大杉について群をぬいて情報が少なく、写真も含めて掲載しているところは貴ページしか確認していないところです。どの程度ご承知かはわかりかねるところですが、とりあえずお尋ねしたくご連絡いたしました。
環境省の巨樹巨木林DBにおいて情報を欲している木は
・1998年の記録のみ
・住所は熊本県矢部町上畑
・幹周810cm
・写真等はなし
という断片的なものです。ここでいう「上畑の大杉」と別の木の可能性すらあるところですが、まずは同じ木であろうと考えています。
調査は直接訪問し、再測定ということになりますが、そもそも詳細な場所がわからず、到達可能かということも今現在は不明です。また、事前に調査許可等得たいと思いますが、知見者等もわからないため、手続きが進められない状況です。(1988年調査では集落管理のようです。)本件、ご承知の範囲でご教示いただければ幸いです。
※公開としろとことでしたが、投稿ページには公開とするための欄がありませんでした??
熊本の巨樹調査担当
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2025年08月20日 17時06分33秒
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2025年08月25日 14時49分12秒
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Re:上畑の大杉
情報提供ありがとうございました。
取り急ぎお礼申し上げます。
熊本の巨樹調査担当
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2025年08月25日 14時49分10秒
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Re: 上畑について
大字名では「山都町畑」と称します。
山都町畑のなかの「上畑地区」です。
山都町役場総務課(電話0967-72-1111)におたずねにられると「上畑地区」の区長の連絡先も教えてくれると思います。
山都町郷土史伝承会 2025年08月23日 14時25分18秒
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Re:上畑の大杉
回答ありがとうございます。
重ねても質問で恐縮ですが、
管理者 上畑
というのは集落名と思いますが、現在でも集落が維持されいているのか、ご教示可能でしょうか。
巨樹調査 2025年08月23日 13時44分37秒
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Re: 上畑の大杉
上畑の大杉についてお問い合わせいただきありがとうございます。
まずは、「上畑の大杉」について『矢部町史』より以下引用し、ご紹介します。
天然記念物上畑の大杉 (昭和53年5月19日指定)
所在地 山都町畑字桑鶴
管理者 上畑
上畑、桑鶴の山上にある大杉で、株の周りが22メートルで7本に分枝している。樹齢は約300年
余りで、分かれている幹の周りは2メートル、4メートル、8メートル、7メートル、5メートルの巨
幹、樹高は30メートルにも及んでいる。この山上一帯を桑鶴神社と称し、古木、巨樹には神霊が宿る寄代とした、古代信仰の聖地として、分枝の一本一本が天照大神、阿蘇大明神、男成大明神、稲荷大明神であり、天神、山の神、風の神等の自然神の神域となっている。国土地理院の地図にも、この大杉は独立標高樹と記載され、矢部の各地から見えるので、浜町の位置を知る上にも便利である。
この地は「イギナバル」と称し、古代の神々が「神集へに集いたまい、神議りに議りたまいて」と合議を行った場所であると伝えられています。江戸時代には、この地で法楽興業も行われていたといいます。
山都町郷土史伝承会 2025年08月23日 11時20分25秒
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木村家ルーツについて
私は島木(木鷺野)出身の木村と言います。
実家は農家で茶や米を作っていたそうです。
江戸時代までは戸籍でわかりましたが、
島木の木村は元々、何処から来たのでしょうか?
もし、ご存知であればご教授願います。
木村信幸
Mail
2025年04月06日 16時34分04秒
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Re:木村家ルーツについて
>私は御所出身の木村です。掲示板を見て島木の木村さんと見ていそぎ連絡しました。ご先祖さまに「幸七さん」もしくは「清七」さんはいらっしゃいますかね?江戸時代、島木の同姓の家からお嫁さんが来たと聞いたことがあり、除籍謄本を取ったり御所のお墓を見たところ、たしかに木村幸七と木村清七の名前が出てくるので気になった次第です。もし幸七さんならば、島木の方で一時期庄屋さんをされていたようですけども。
木村タノン 2025年06月25日 14時46分45秒
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Re:木村家ルーツについて
>私は御所出身の木村です。掲示板を見て島木の木村さんと見ていそぎ連絡しました。ご先祖さまに「幸七さん」もしくは「清七」さんはいらっしゃいますかね?江戸時代、島木の同姓の家からお嫁さんが来たと聞いたことがあり、除籍謄本を取ったり御所のお墓を見たところ、たしかに木村幸七と木村清七の名前が出てくるので気になった次第です。もし幸七さんならば、島木の方で一時期庄屋さんをされていたようですけども。
木村タノン 2025年06月25日 14時46分42秒
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Re:木村家ルーツについて
>私は島木(木鷺野)出身の木村と言います。
>実家は農家で茶や米を作っていたそうです。
>江戸時代までは戸籍でわかりましたが、
>島木の木村は元々、何処から来たのでしょうか?
>もし、ご存知であればご教授願います。
ご教授頂きありがとうございました。
なるほど、ご説明頂いた様に姓名も変わって行った
可能性がありますね。姓を自由に名乗って
良くなったのも明治に入ってからですし、
村同士の交流もあったでしょうから移り住む事も
多々あったでしょうね。
ありがとうございました。
木村
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2025年04月12日 23時49分11秒
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Re: 木村家ルーツについて
木村さん、こんにちは! あいにく木村氏のルーツについては存じ上げませんが、荒木氏についてはこんな話を聞いたことがあります。
古代、御船川は矢部郷への文化の入口であり、その沿線には歴史の名残が残っているといいます。 例えば、6~7世紀ごろのものとされる島木峰の遺跡からは、三基の箱式石棺や鉄剣三振、鉄鏃が出土しました。また、地名「金内」や上流の「鍛冶床」といった名称も、かつて鉄文化が栄えた痕跡とされています。
製鉄を担った蹈鞴(たたら)集団の中には、「鉄穴師(かんなじ)」と呼ばれる採鉱係や、「カヌチ」という砂鉄採掘係がいたと伝えられています。地名「金内」は、これらの言葉が変化して生まれたという説があります。
さらに、炉の主任を「村下(むらげ)」と呼び、副主任は「炭坂(すみさか)」とされました。炭を勢いよく燃やす職務だったので、このような名前が付いたのでしょう。 また、「炭焚(すみたき)」は木炭投入係、「荒木(あらげ)」は採鉱係の助手のような役割でした。「荒木」という姓は、ここから生まれたと言われています。
村下(むらげ)の人々は、金内から田小野へ、さらに朝日の方へと移動し、その途中には古い姓を持つ人々が今も残っています。
荒木姓を調べると、島木に約20軒、清和の鶴ケ田に約27軒が見られます。清和から中島の島木、麻山の前谷にかけても、島木を中心に荒木姓が広まっており、下名連石に5軒、千滝や杉、浜町、上寺などの町中にも、20軒近くの荒木姓が存在します。
また、御岳の麻山には「村木」という姓の人々がおり、その由来は「ムラゲ」とされます。朝日の安方へ行くと「村手」へと変化し、彼らは採鉄を行った人々の後裔だと言われています。
山都町郷土史伝承会 2025年04月07日 10時31分12秒
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矢部手永郷士 志賀について
昔、先祖が矢部の上名連石という所で庄屋と地侍をやっていたようです。確かに町在や矢部町史などを見ていると、庄屋や郡代直触で志賀という名前が出てきます。
また、矢部町史や熊大の文献を見ていると、当時の郷士は大友、加藤、小西、佐々の元家臣団出身と記載してありました。もしやと思って、それぞれの分限帳やその他家臣に関する文献を漁りました。
加藤と大友には志賀という家臣がいたようで、そのいずれかなのではと思っています。
晩年になって、子孫に家のことについて伝えていけたらと考えています。矢部町の郷士志賀さんについて、ご存知のことがあれば教えて頂きたいです。大友や加藤と関係はあるのでしょうか?
志賀タツ 2025年04月12日 01時43分53秒
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Re: 矢部手永郷士 志賀について
志賀さんこんにちは、上名連石村の志賀さんについては、永青文庫の中の「町在」のなかに
「矢部手永上名連石村地侍志賀権左衛門、役方多年出精等にて賞美」(9.24.2_131)
「矢部手永上名連石村地侍志賀権左衛門病死、倅志賀仁之允跡目相続」(10.1.6_170)
「矢部手永上名連石村等庄屋志賀準平他3人、役方多年出精にて賞美」(10.3.1_207)
見ることができます。
これらの史料は、熊本県立図書館3階の特別資料として保管されています。
閲覧やコピーができます。図書館に来館できない方には郵送複写のサービスも行っていますので図書館にお尋ねください。
山都町郷土史伝承会 2025年04月13日 10時32分35秒
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> 万坂と千滝と言う地名の由来を教えて下さい!
ひろさんのお尋ねについてお答えします。
地名研究家の倉岡良友先生は、熊本県の「万坂」という地名の由来について以下のような仮説を提唱されています
1.文献初見: 正平9年(1350)の阿蘇家文書に「まちさか、あそたけのりやう」という記載がある。ただし、村の起源はさらに古く、縄文・弥生時代まで遡る可能性がある。
2.地名の解釈: 「まちさか」は万坂村名、「あそたけのりやう」は阿蘇岳(山)の領地、阿蘇家の領地を示している。「まちさか」が「まんさか」に転じ、漢字表記「万坂」が定着したと考えられる。
3.地名要素の歴史的な意味:
「まち」: 商業地ではなく、水田の区画を意味する例が全国的に見られる。
「さか」: 古代文献では「峠」の意味で使用されており、「坂」と「峠」は同義語とされていた。
4.村の地名の分布: 中世の城や砦に関わる地名(屋敷、前田堀、出口など)が集中しており、これらが領主や土豪の直営田を示しているとされる。
5.「前田」の意味: 領主や在郷武士が権威を示すために名付けた土地であり、耕地として使われた。
まとめると、「万坂」という地名には古代からの土地利用や歴史的背景が反映されており、水田の区画や中世の城館の跡などがその形成に影響しているとされています。
また、千瀧については次のように述べられています。
千の「せん」は美称か、「せん先」で、さき・先端である。滝はもちろん高い崖から流れ落ちる水の滝が普通の意味だが、水が流れ落ちなくても「たき・滝」には崖、絶壁の語意もある。全国・県下にも地形地名として多く分布している。
ここの場合は集落が千滝川が形成した断崖、崖地の先端部に立地していることを表現した地形地名ではないかと考えられる。
山都町郷土史伝承会 2025年04月10日 12時57分27秒
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掲示板です。
山都町の素敵な時代や,場所などをご自由にお書きください。
山都町郷土史伝承会 2015年03月17日 08時21分59秒
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Re:掲示板です。
> 万坂と千滝と言う地名の由来を教えて下さい!
ひろ
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2025年04月09日 19時23分04秒
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Re: 掲示板です。
「目丸の大多良村の由来について教えて下さい。」との問合せがありました。以下諸先生の説を紹介します。
明和2年(1765)の「国郡一統誌」には,黒谷,小迫,市ノ尾,居屋敷,井野,出崎,金地,西小(オ),中小,尾多羅(多太良)崎,菅頭,鹿出蔵,中尾牟連,大石原及び貫原の15の目丸の小村が記されています。
地名研究家の倉岡良友先生の説によれば,尾多羅(大多良)崎の「尾・崎」は尾根筋台地の終わり,末端,先端だ表す言葉だそうです。「タラ」は,マライ語の,平らな,平坦,台地上が緩斜面の意味もある。その反対にタラの類似音クラが転訛したもので崖地,高くそびえた断崖地形に名付けられた崖地名だとされています。従って,尾多羅(大多良)崎は,山裾の尾根筋の台地上が平で緩斜面で,その先端は急崖地形となっていることを表現した地名だと先生は述べられています。
その一方で先生は,カナジ,オオタラ(タタラ)の表音語から製鉄に由来するものと考えられるとも述べられています。タタラ(大多良)は製鉄精錬の炉で鞴(吹子)のことを言います。
亡くなられた郷土史家の井上清一先生は,別の観点から大多良の由来について説明されています。先生の説明によれば,アルファベットの「O」の発音が付く地名には,木地師にまつわるところが多いと言われます。
大多良はもちろんですが,青石は通常は「あおいし」と呼んでいますが,地元の古老は「おし」と呼ぶんだそうです。この青石や大平,笈石等々「O」で始まります。人の名前で言えば「小椋」,「大倉」,「大庫」等々もですね。ちなみに目丸には木地師の子孫がいたことが確認されています。
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時33分14秒
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Re: 掲示板です。
コメントを見落とし、返事が大変遅くなり申し訳ございません。
私も下市生まれの下市育ちなので、東写真館、風ノ神はよく知っています。風ノ神は、今もありますが松の木は枯れたのではないですかね。
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時25分51秒
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Re:掲示板です。
昭和30年ころ浜町小学校に3年間ほど通っていました、記憶に残っているのは、京の上臈、五老が滝などに母と一緒に歩き回ったことです。下市のヒガシ写真館の近くに住んでいました、その家の裏山に風の神さんと呼んでいたところは今もあるのでしょうか?また下市あったオガライト工場の火災を鮮烈に覚えてます。11月に70年ぶりに伺う予定です。
福田栄二
Mail
2024年10月15日 10時44分21秒
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Re:掲示板です。
目丸の大多良村の由来について教えて下さい。
中村好太郎
Mail
2016年10月04日 05時52分12秒
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山都町、田小野に分布する西姓について
初めて質問をさせていただきます。
私自身熊本生まれでもないのですが本家が山都町の田小野にあり
西姓であります。
自身で先祖の事を調べてはいるのですが、なかなか進展がなく
本家の方からはぼんやりと阿蘇家関係なのではないかとのこと。
そちらの方向で調べましてもなかなか確信できるものがなく、
もしご存知の事がありましたらご教授頂けると幸いです。
西 響
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2025年02月15日 23時19分19秒
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Re: 山都町、田小野に分布する西姓について
お早うございます。
阿蘇家の西家といえば、西源兵衛惟景(これかげ)がいます。天正十三年八月に島津軍が阿蘇家領に侵入しました。そのとき、西源兵衛惟景をはじめ、阿蘇家の忠節の家臣達で協議のうえ、幼い大宮司と惟種夫人を目丸にかくまうことにし、西源兵衛惟景は幼い大宮司を背負って、目丸へと向かいました。そのことを記録した「拾集昔語」には、次のように記されています。
『惟種公の後室并惟光公惟善公を隱し奉る事』
一 阿蘇の御家臣甲斐氏仁田水初發に薩摩江令歸伏侯故其外下いつれも同前にて惟種公の後室兩若御達濱の御所江被成御座候ては當分御家人を先として他は申に不及無心元侯とて元來金石の御家人に南郷矢部兩高森男成早川の城主兄弟渡邊甲佐中山の田上砥用上島の田上北里下城坂梨西北迫此人々一同に申談侯は後室は小宰相と云大女﨟と能き隱居の在所へ供奉仕御心安可被成御座候御代々の御文綸旨御寶物は男成明神の御寶殿に奉隱一太夫守護可仕侯其内綸旨口宣文書は坂梨氏背負可申侯此外の御寶物は濱の御所江人しらさる穴藏有之侯に隱置迫井手兩頭在番仕與風御母子樣共に被成御上京と申ふらし鳥居之大門をたて小門を開き注連を引廻し諸人出入令禁制可罷有侯御兩若君へは坂梨氏孫太郎西源兵衛渡邊軍兵衛此三人供奉仕砥用矢部境の奥目丸の深山幽谷へ忍ひ隱れ守り仕時分を待可申旨申合右の山中に各三人附居侯て御兵粮の運送は右 殘り侯者共彼幽谷の隱家に相送可申旨申談扨眞先に御綸旨御文書を坂梨氏背負次に惟光公を西氏肩に載せ參らせ次に惟善公御字をほそ殿と申侯を渡邊軍兵衛肩に載せ忍入侯處に御跡ゟ三人追かけ其若君はわれ/\請取守護可仕と申侯を渡邊ふり返り見侯て其手令推察侯己等共薩摩江御供可申とや内々見聞も致侯はん自分か手並見せんとて大岩のかけにほそ殿を置申侯て提たる鑓にて坂の上よりまくりかけ眞先の者を突伏侯へは眞下りにかいふつて迯侯故鉢巻に能々御取附被成侯へ大將はむつからぬものにて御座候ぞと申侯れ朱に成侯鑓を片手にひつさけ各の跡をしたひ參り侯由祖父折々咄被申侯亡父度々承侯と被語聞侯阿蘇の御家其頃は惟前公方神主公方とて阿蘇家二つにわれて有之侯由にて定而惟前公方の者にて有之侯はんと亡父咄居申侯惟前公先筆に書出侯通に被成敗北侯故其方人共は降人と成或は令逐電山谷野外に身をほそめ罷在侯由に侯間定て左樣の者ともにて若君を背負薩摩江參間敷にもあらす侯故軍兵衛被申分尤と存侯惣て軍兵衛は大の男にて大力の由語傅侯亡父初て神主惟善侯江軍兵衛病死後に罷出侯へは亡父に孫兵衛と假名共被仰付上下被爲拜領なぜ當分迄罷出不申侯やと被仰出侯に多年在京藪醫傳受仕居申侯て參不申侯と申侯へは坂梨氏の老翁軍兵衛事を被申出昔物語被咄出侯に惟善公被仰出侯は其通に侯鑓に血のついて流れ侯をすさましく思ひ侯事夢の樣に有之侯と被仰侯と亡父折々咄聞被申侯事
これを要約すれば、
惟種公の後妻と惟光公、惟善公をお隠し奉ることについての記録。
阿蘇家臣の甲斐氏が最初に薩摩へ降伏したため、他の家臣も同様に従った。惟種公の後妻と二人の若君を保護するため、家臣たちは相談して決めた。まず、御文書と御宝物は男成明神の御宝殿に隠し、一太夫が守護する。後妻は小宰相(こさいしょう)と呼ばれる女性の良い隠居場所で安らかに過ごせるよう心を配る。
二人の若君はそれぞれ坂梨氏、渡邊氏、西氏の家臣たちが護衛し、奥目丸の深山幽谷に隠れながら守った。御兵粮は幽谷の隠れ家に運び入れた。
惟光公は西氏、惟善公は渡邊氏が肩に背負いながら、見張りを避けて移動。途中で襲撃を受け、渡邊は敵を撃退し、若君を守りきった。阿蘇家は当時、惟前公方と神主公方に分裂していた。惟前公方は敗北し、その家臣たちは降伏、または山谷野外に逃げ隠れた。
渡邊軍兵衛は大力の男であり、薮医として生き延び、後に再び神主惟善公に仕えた。その後、孫兵衛と名乗り、阿蘇家に忠誠を尽くした。
山都町郷土史伝承会 2025年02月16日 09時28分45秒
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「公開する」で投稿をお願いします。
みなさん、投稿ありがとうございます。
せっかく投稿していただきましても「非公開」となっているため、私が投稿を見落として投稿していただいた方にお返事が遅れ大変ご迷惑をおかけしています。恐れ入りますが、投稿の際は「公開する」を選択して投稿していただきますようお願い申し上げます。
山都町郷土史伝承会 2025年02月16日 09時34分15秒
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