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目丸の大多良村について
 「目丸の大多良村の由来について教えて下さい。」との問合せがありました。以下諸先生の説を紹介します。

 明和2年(1765)の「国郡一統誌」には,黒谷,小迫,市ノ尾,居屋敷,井野,出崎,金地,西小(オ),中小,尾多羅(多太良)崎,菅頭,鹿出蔵,中尾牟連,大石原及び貫原の15の目丸の小村が記されています。

 地名研究家の倉岡良友先生の説によれば,尾多羅(大多良)崎の「尾・崎」は尾根筋台地の終わり,末端,先端だ表す言葉だそうです。「タラ」は,マライ語の,平らな,平坦,台地上が緩斜面の意味もある。その反対にタラの類似音クラが転訛したもので崖地,高くそびえた断崖地形に名付けられた崖地名だとされています。従って,尾多羅(大多良)崎は,山裾の尾根筋の台地上が平で緩斜面で,その先端は急崖地形となっていることを表現した地名だと先生は述べられています。

その一方で先生は,カナジ,オオタラ(タタラ)の表音語から製鉄に由来するものと考えられるとも述べられています。タタラ(大多良)は製鉄精錬の炉で鞴(吹子)のことを言います。

亡くなられた郷土史家の井上清一先生は,別の観点から大多良の由来について説明されています。先生の説明によれば,アルファベットの「O」の発音が付く地名には,木地師にまつわるところが多いと言われます。

大多良はもちろんですが,青石は通常は「あおいし」と呼んでいますが,地元の古老は「おし」と呼ぶんだそうです。この青石や大平,笈石等々「O」で始まります。人の名前で言えば「小椋」,「大倉」,「大庫」等々もですね。ちなみに目丸には木地師の子孫がいたことが確認されています。


田上 彰 2016年10月04日 08時42分46秒
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浜町と馬見原の初市について
この時期、各地で初市開催のニュースを聞きます。ここ山都町でも、今月24日と25日に蘇陽地区の馬見原商店街一帯で、そして27日28日には、矢部地区の新町正午町一帯で初市が開かれます。

 子供の頃は、春休みと共に訪れるこの初市がとても楽しみでした。露天商だけではなく、ガマの油売りやバナナのたたき売り、ろくろ首、さらにはサーカスまでやって来たことがあります。

 さて、その初市の歴史ですが、中世のころに村や町が形成され、農業や手工業なども発達しました。それにともなって市も発達しました(農業や手工業が発達すると売買や交換する物が増えます。)。

 市とは、物資の交換取引が行われる場所のことです。寺社門前や交通要地に三斎市や六斎市など呼ばれる定期市が開かれました。三斎市というのは月に3回開かれる市のことで、六斎市というのは同様に月に6回開かれる市のことです。

 馬見原では、天和3年(1683)に三斎市が許され、江戸後期になると六斎市が許され、馬見原の古町では5.6.15.16.25.26日が、新町では朔.11.21日が市日だったそうです。

 一方浜町では、7.17.27日の7のつく日がその開催日でした。特に2月7日は初市、7月7日は七夕市、10月27日は大市といって非常なにぎわいを呈していたそうです。当時のにぎわいの様子として矢部町史には「その日は、近在の村々からはもちろんのこと、熊本、川尻、宇土、小川、松橋、八代など平生取引の行われている地方からも商人が集まったし、さらに、日向臼杵藩の那須からも山道をものともせずに出て来て交易していた。」と書いてあります。当時の市は、たいへん賑わっていたようですね。

 現在は車社会になってだいぶ社会の様子が変わってきていますが、数十年前までは、町史に書いてあるように、お隣の宮崎県からも九州山地の山々を超えてこの浜町まで買い物にやって来たようです。なお、町史で紹介されている2月7日、7月7日、10月27日は何れも旧暦ですから新暦だと約1ヶ月遅れとなります。
 
 小一領神社は、昔は新町にあり柳本大明神と呼ばれていました。新町には妙見の大ケヤキと呼ばれる国指定(現在は町指定)の天然記念物がありますが、その根元には湧水が見られます。ここが、柳本大明神の「東の御手洗」です。御手洗というのは、神社にお参りするとき手を洗い口をすすいで身を清める場所のことです。

 一方の西の御手洗は、下馬尾の浜町橋際にありました。今は火事で燃えてなくなりましたが、そこにも大きなケヤキがありました。下馬尾というのは、その柳本大明神の社前を通過する際に下馬したのでそういう地名がついたと伝えられています。現在の浜町の中心部はそのように広いお宮の境内地でした。よって、昔は宮原町と呼ばれていました。

 そんな、境内地の一郭に初めて店ができたのは慶長17年(1612)のことだといわれています。その時の商人の名前も分かっています。愛籐寺の商人孫左衛門と長左衛門をはじめとする人々が愛籐寺からこの宮原に移り住んで店を構えました。その店を構えた場所は、現在の野田病院と千滝川との間の通称下町と呼ばれるところです。

 今述べましたように、愛籐寺には浜町に店ができる以前から愛籐寺城の城下町としての店がありました。慶長17年に愛籐寺城が取り壊されたことにより、城下町にいた商人達が宮原町、現在の浜町に引っ越してきたのです。

 同様に、別当が居た入佐にも店があったようです。現在の潤徳小学校北側の田園一帯です。そこら一帯には上町、下町、塩買所や秤屋などの地名が残っています。

 ちょっこ、話が横道にそれますが入佐には「でごや」と言う屋号があります。江戸時代は、どこにでも自由に店を出してよいわけではありません。特に、農村に店を構えることは百姓の消費を拡大することであり藩にとっては年貢納めに支障を来たらすとして、厳しく取り締まっていました。

 そこで、昼間だけ店を開け、夜は店を閉めて帰ると言ったような、いわゆる出張販売みたいな形で商売が行われ、それを「でごや」と呼んでいたみたいです。漢字をあてると「出小屋」になるのではないかな思います。
 さて、慶長17年(1612)に浜町に店ができて、以後だんだんと発展していくのですが、特に大きく発展した時期は江戸時代の元禄年間です。元禄15年(1702)に横町及び新町ができ、一気に町が発展しました。その原因は、内大臣を初めとして緑川沿いの林業の仕事が増えたからだと言われています。山仕事のためにたくさんの人々が熊本の町から矢部に移住してきました。人が増えれば物もよく売れます。冒頭紹介しました初市を初めとする三斎市が浜町で開かれたのも、このころからではないかと思います。また、このころの浜町には奉行も置かれていました。
田上 彰 Mail 2018年03月22日 08時11分31秒
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校歌について
 浜町小学校校歌
  
1 岩尾の城の城跡に
  轟川の川音に
  今も残れる先人の
  尊き技をしのびつつ
  吾れ等学友血は踊る

2 緑に包む山脈(やまなみ)や
  黄金(こがね)に満(みつる)田園の
  生ける姿に里人の
  励める姿を望みつつ
  吾れ等学友腕は鳴る
 
 ぼくの母校旧浜町小学校の校歌は山口白陽氏による作詞です。岩尾の城とは、通潤橋の北側に位置する岩尾城、通称「城山」のことです。今も残れる先人の尊き技とは「通潤橋」のことです。

 作詞も良いですが作曲も素晴らしいです。この詩を見ると今でもメロディーが聞こえて来そうです。

 旧浜町中学校の校歌も山口白陽氏による作詞です。
 
 浜町中学校校歌

1 雲白く山脈青く
  千滝は音もとどろに
  谷遠く川は光れり
  ここぞ矢部われらが郷土
  浜町中学
  さきがけて自ら学ぶ

2 石一つ一つの命
  通潤の橋を築きて
  大空に虹とかけたり
  ここぞ矢部われらが郷土
  浜町中学
  おしみなく勤しみ励む

3 霧ふかき丘の彼方に
  茶つみ唄声も明るく
  明け暮るる日々の豊けさ
  ここぞ矢部われらが郷土
  浜町中学
  肩くみて理想に進む
https://www.youtube.com/watch?v=7WEpEDSXJVk

 
残念ながらこの2校とも、小学校は矢部小学校に、中学校は矢部中学校に統合され、思い出深い校歌は無くなり、新しい校歌となりました。

我が母校で唯一矢部高校校歌だけは、今でも残って歌い続けられています。作詞は五高の八波教授で、作曲は熊師の末次教授です。
この校歌は1番は男子が歌い、2番は女子が歌う。そして3番を男女合唱で歌います。

1 阿蘇の噴煙遠方(おち)に見て、
  大矢の山や目丸山
  内大臣の名におえる
  端山繁山いと繁く
  山の気に触れ霊に触れ
  矢部高健児
  意気高し

2 布田の翁がその昔
  思念凝らせし石橋に
  水を通して民草を
  永遠(とわ)に潤し給いたる
  聖徳偉業これぞこれ
  矢部高女子の理想なる

3 見よや高原気は澄みて
  神霊こもる学びやに
  学理実習いそしみて
  至誠を神に誓ひつつ
  通潤魂を発揮して
  国利民福弥増さん

 さすが、通潤橋のある町ですね。小学校から高校まで、すべての校歌の歌詞に通潤橋が織り込まれています。学生時代は歌詞の意味は、ほとんどわからずに歌っていましたが、なかなか良い校歌ですね。

 特に、矢部高校校歌の3番の歌詞に「神霊こもる学びやに」とありますが、もちろんこの校歌は「浜の館」が発掘される前に作られたものなのに、なぜこんな歌詞を作詞できたのでしょうか?!
まるで「浜の館」が発掘されることを予言していたかのようです。

 もっともこの地には、発掘されるまでは「この場所には金の鶏が埋まっており、毎年、年の晩には鳴く」と云う伝承が伝わっていました。それが、いざ発掘したら金の鶏ではなく、鳥型三彩水注などの宝物が出てきた次第です。それも、発掘調査日の最終日にです。たいへんドラマチックな発掘でした。
田上 彰 Mail 2018年01月31日 08時57分26秒
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目丸の久吉
 目丸の話しが出たついでに,目丸にまつわるお話しを一席紹介します。

 天正13年(1585)島津軍が肥後に攻め入り,大宮司親子は目丸に隠れ住みました。豊臣秀吉は,島津の北上を止めるため九州征伐を行い島津を撤退させました。

 目丸では,そのときの喜びの象徴として,「芝居が何でも、秀吉でないと承知せん」という言葉あります。例えば,忠臣蔵の場面に突如鎧を来た侍が出て来て、「羽柴筑前守久吉(秀吉のこと)、用は無けれども罷り通る」と言って舞台をすーっと通って行くと部落の人達はわーっと拍手喝采をして、その後何も無かったかのように通常の芝居に戻ります。

 このように目丸の人達は「何にでも出ることを目丸の久吉」と言っていました。それが転じて,いろんな役職に就く人のことも「目丸の久吉」と言っていました。

 それほど,島津を撤退させた秀吉に感謝した目丸の人ですが,後に大宮司阿蘇惟光は,幼くして秀吉によって自害させられました。
田上 彰 2016年10月06日 10時36分21秒
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2016年10月05日 13時58分44秒
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掲示板です。
 山都町の素敵な時代や,場所などをご自由にお書きください。
山都町郷土史伝承会 2015年03月17日 08時21分59秒
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Re:掲示板です。
目丸の大多良村の由来について教えて下さい。
中村好太郎 Mail 2016年10月04日 05時52分12秒
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