山都暮らし人交流サイト
に ようこそ、ゲストさん
山都町郷土史伝承会
トップ
>
掲示板
掲示板
新着順 /
登録順
1
2
次へ
(17件中 1-10件)
矢部手永郷士 志賀について
昔、先祖が矢部の上名連石という所で庄屋と地侍をやっていたようです。確かに町在や矢部町史などを見ていると、庄屋や郡代直触で志賀という名前が出てきます。
また、矢部町史や熊大の文献を見ていると、当時の郷士は大友、加藤、小西、佐々の元家臣団出身と記載してありました。もしやと思って、それぞれの分限帳やその他家臣に関する文献を漁りました。
加藤と大友には志賀という家臣がいたようで、そのいずれかなのではと思っています。
晩年になって、子孫に家のことについて伝えていけたらと考えています。矢部町の郷士志賀さんについて、ご存知のことがあれば教えて頂きたいです。大友や加藤と関係はあるのでしょうか?
志賀タツ 2025年04月12日 01時43分53秒
削除パスワード
Re: 矢部手永郷士 志賀について
志賀さんこんにちは、上名連石村の志賀さんについては、永青文庫の中の「町在」のなかに
「矢部手永上名連石村地侍志賀権左衛門、役方多年出精等にて賞美」(9.24.2_131)
「矢部手永上名連石村地侍志賀権左衛門病死、倅志賀仁之允跡目相続」(10.1.6_170)
「矢部手永上名連石村等庄屋志賀準平他3人、役方多年出精にて賞美」(10.3.1_207)
見ることができます。
これらの史料は、熊本県立図書館3階の特別資料として保管されています。
閲覧やコピーができます。図書館に来館できない方には郵送複写のサービスも行っていますので図書館にお尋ねください。
山都町郷土史伝承会 2025年04月13日 10時32分35秒
削除パスワード
ページトップへ
木村家ルーツについて
私は島木(木鷺野)出身の木村と言います。
実家は農家で茶や米を作っていたそうです。
江戸時代までは戸籍でわかりましたが、
島木の木村は元々、何処から来たのでしょうか?
もし、ご存知であればご教授願います。
木村信幸
Mail
2025年04月06日 16時34分04秒
削除パスワード
Re:木村家ルーツについて
>私は島木(木鷺野)出身の木村と言います。
>実家は農家で茶や米を作っていたそうです。
>江戸時代までは戸籍でわかりましたが、
>島木の木村は元々、何処から来たのでしょうか?
>もし、ご存知であればご教授願います。
ご教授頂きありがとうございました。
なるほど、ご説明頂いた様に姓名も変わって行った
可能性がありますね。姓を自由に名乗って
良くなったのも明治に入ってからですし、
村同士の交流もあったでしょうから移り住む事も
多々あったでしょうね。
ありがとうございました。
木村
Mail
2025年04月12日 23時49分11秒
削除パスワード
Re: 木村家ルーツについて
木村さん、こんにちは! あいにく木村氏のルーツについては存じ上げませんが、荒木氏についてはこんな話を聞いたことがあります。
古代、御船川は矢部郷への文化の入口であり、その沿線には歴史の名残が残っているといいます。 例えば、6~7世紀ごろのものとされる島木峰の遺跡からは、三基の箱式石棺や鉄剣三振、鉄鏃が出土しました。また、地名「金内」や上流の「鍛冶床」といった名称も、かつて鉄文化が栄えた痕跡とされています。
製鉄を担った蹈鞴(たたら)集団の中には、「鉄穴師(かんなじ)」と呼ばれる採鉱係や、「カヌチ」という砂鉄採掘係がいたと伝えられています。地名「金内」は、これらの言葉が変化して生まれたという説があります。
さらに、炉の主任を「村下(むらげ)」と呼び、副主任は「炭坂(すみさか)」とされました。炭を勢いよく燃やす職務だったので、このような名前が付いたのでしょう。 また、「炭焚(すみたき)」は木炭投入係、「荒木(あらげ)」は採鉱係の助手のような役割でした。「荒木」という姓は、ここから生まれたと言われています。
村下(むらげ)の人々は、金内から田小野へ、さらに朝日の方へと移動し、その途中には古い姓を持つ人々が今も残っています。
荒木姓を調べると、島木に約20軒、清和の鶴ケ田に約27軒が見られます。清和から中島の島木、麻山の前谷にかけても、島木を中心に荒木姓が広まっており、下名連石に5軒、千滝や杉、浜町、上寺などの町中にも、20軒近くの荒木姓が存在します。
また、御岳の麻山には「村木」という姓の人々がおり、その由来は「ムラゲ」とされます。朝日の安方へ行くと「村手」へと変化し、彼らは採鉄を行った人々の後裔だと言われています。
山都町郷土史伝承会 2025年04月07日 10時31分12秒
削除パスワード
ページトップへ
> 万坂と千滝と言う地名の由来を教えて下さい!
ひろさんのお尋ねについてお答えします。
地名研究家の倉岡良友先生は、熊本県の「万坂」という地名の由来について以下のような仮説を提唱されています
1.文献初見: 正平9年(1350)の阿蘇家文書に「まちさか、あそたけのりやう」という記載がある。ただし、村の起源はさらに古く、縄文・弥生時代まで遡る可能性がある。
2.地名の解釈: 「まちさか」は万坂村名、「あそたけのりやう」は阿蘇岳(山)の領地、阿蘇家の領地を示している。「まちさか」が「まんさか」に転じ、漢字表記「万坂」が定着したと考えられる。
3.地名要素の歴史的な意味:
「まち」: 商業地ではなく、水田の区画を意味する例が全国的に見られる。
「さか」: 古代文献では「峠」の意味で使用されており、「坂」と「峠」は同義語とされていた。
4.村の地名の分布: 中世の城や砦に関わる地名(屋敷、前田堀、出口など)が集中しており、これらが領主や土豪の直営田を示しているとされる。
5.「前田」の意味: 領主や在郷武士が権威を示すために名付けた土地であり、耕地として使われた。
まとめると、「万坂」という地名には古代からの土地利用や歴史的背景が反映されており、水田の区画や中世の城館の跡などがその形成に影響しているとされています。
また、千瀧については次のように述べられています。
千の「せん」は美称か、「せん先」で、さき・先端である。滝はもちろん高い崖から流れ落ちる水の滝が普通の意味だが、水が流れ落ちなくても「たき・滝」には崖、絶壁の語意もある。全国・県下にも地形地名として多く分布している。
ここの場合は集落が千滝川が形成した断崖、崖地の先端部に立地していることを表現した地形地名ではないかと考えられる。
山都町郷土史伝承会 2025年04月10日 12時57分27秒
削除パスワード
ページトップへ
掲示板です。
山都町の素敵な時代や,場所などをご自由にお書きください。
山都町郷土史伝承会 2015年03月17日 08時21分59秒
削除パスワード
Re:掲示板です。
> 万坂と千滝と言う地名の由来を教えて下さい!
ひろ
Mail
2025年04月09日 19時23分04秒
削除パスワード
Re: 掲示板です。
「目丸の大多良村の由来について教えて下さい。」との問合せがありました。以下諸先生の説を紹介します。
明和2年(1765)の「国郡一統誌」には,黒谷,小迫,市ノ尾,居屋敷,井野,出崎,金地,西小(オ),中小,尾多羅(多太良)崎,菅頭,鹿出蔵,中尾牟連,大石原及び貫原の15の目丸の小村が記されています。
地名研究家の倉岡良友先生の説によれば,尾多羅(大多良)崎の「尾・崎」は尾根筋台地の終わり,末端,先端だ表す言葉だそうです。「タラ」は,マライ語の,平らな,平坦,台地上が緩斜面の意味もある。その反対にタラの類似音クラが転訛したもので崖地,高くそびえた断崖地形に名付けられた崖地名だとされています。従って,尾多羅(大多良)崎は,山裾の尾根筋の台地上が平で緩斜面で,その先端は急崖地形となっていることを表現した地名だと先生は述べられています。
その一方で先生は,カナジ,オオタラ(タタラ)の表音語から製鉄に由来するものと考えられるとも述べられています。タタラ(大多良)は製鉄精錬の炉で鞴(吹子)のことを言います。
亡くなられた郷土史家の井上清一先生は,別の観点から大多良の由来について説明されています。先生の説明によれば,アルファベットの「O」の発音が付く地名には,木地師にまつわるところが多いと言われます。
大多良はもちろんですが,青石は通常は「あおいし」と呼んでいますが,地元の古老は「おし」と呼ぶんだそうです。この青石や大平,笈石等々「O」で始まります。人の名前で言えば「小椋」,「大倉」,「大庫」等々もですね。ちなみに目丸には木地師の子孫がいたことが確認されています。
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時33分14秒
削除パスワード
Re: 掲示板です。
コメントを見落とし、返事が大変遅くなり申し訳ございません。
私も下市生まれの下市育ちなので、東写真館、風ノ神はよく知っています。風ノ神は、今もありますが松の木は枯れたのではないですかね。
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時25分51秒
削除パスワード
Re:掲示板です。
昭和30年ころ浜町小学校に3年間ほど通っていました、記憶に残っているのは、京の上臈、五老が滝などに母と一緒に歩き回ったことです。下市のヒガシ写真館の近くに住んでいました、その家の裏山に風の神さんと呼んでいたところは今もあるのでしょうか?また下市あったオガライト工場の火災を鮮烈に覚えてます。11月に70年ぶりに伺う予定です。
福田栄二
Mail
2024年10月15日 10時44分21秒
削除パスワード
Re:掲示板です。
目丸の大多良村の由来について教えて下さい。
中村好太郎
Mail
2016年10月04日 05時52分12秒
削除パスワード
ページトップへ
山都町、田小野に分布する西姓について
初めて質問をさせていただきます。
私自身熊本生まれでもないのですが本家が山都町の田小野にあり
西姓であります。
自身で先祖の事を調べてはいるのですが、なかなか進展がなく
本家の方からはぼんやりと阿蘇家関係なのではないかとのこと。
そちらの方向で調べましてもなかなか確信できるものがなく、
もしご存知の事がありましたらご教授頂けると幸いです。
西 響
Mail
2025年02月15日 23時19分19秒
削除パスワード
Re: 山都町、田小野に分布する西姓について
お早うございます。
阿蘇家の西家といえば、西源兵衛惟景(これかげ)がいます。天正十三年八月に島津軍が阿蘇家領に侵入しました。そのとき、西源兵衛惟景をはじめ、阿蘇家の忠節の家臣達で協議のうえ、幼い大宮司と惟種夫人を目丸にかくまうことにし、西源兵衛惟景は幼い大宮司を背負って、目丸へと向かいました。そのことを記録した「拾集昔語」には、次のように記されています。
『惟種公の後室并惟光公惟善公を隱し奉る事』
一 阿蘇の御家臣甲斐氏仁田水初發に薩摩江令歸伏侯故其外下いつれも同前にて惟種公の後室兩若御達濱の御所江被成御座候ては當分御家人を先として他は申に不及無心元侯とて元來金石の御家人に南郷矢部兩高森男成早川の城主兄弟渡邊甲佐中山の田上砥用上島の田上北里下城坂梨西北迫此人々一同に申談侯は後室は小宰相と云大女﨟と能き隱居の在所へ供奉仕御心安可被成御座候御代々の御文綸旨御寶物は男成明神の御寶殿に奉隱一太夫守護可仕侯其内綸旨口宣文書は坂梨氏背負可申侯此外の御寶物は濱の御所江人しらさる穴藏有之侯に隱置迫井手兩頭在番仕與風御母子樣共に被成御上京と申ふらし鳥居之大門をたて小門を開き注連を引廻し諸人出入令禁制可罷有侯御兩若君へは坂梨氏孫太郎西源兵衛渡邊軍兵衛此三人供奉仕砥用矢部境の奥目丸の深山幽谷へ忍ひ隱れ守り仕時分を待可申旨申合右の山中に各三人附居侯て御兵粮の運送は右 殘り侯者共彼幽谷の隱家に相送可申旨申談扨眞先に御綸旨御文書を坂梨氏背負次に惟光公を西氏肩に載せ參らせ次に惟善公御字をほそ殿と申侯を渡邊軍兵衛肩に載せ忍入侯處に御跡ゟ三人追かけ其若君はわれ/\請取守護可仕と申侯を渡邊ふり返り見侯て其手令推察侯己等共薩摩江御供可申とや内々見聞も致侯はん自分か手並見せんとて大岩のかけにほそ殿を置申侯て提たる鑓にて坂の上よりまくりかけ眞先の者を突伏侯へは眞下りにかいふつて迯侯故鉢巻に能々御取附被成侯へ大將はむつからぬものにて御座候ぞと申侯れ朱に成侯鑓を片手にひつさけ各の跡をしたひ參り侯由祖父折々咄被申侯亡父度々承侯と被語聞侯阿蘇の御家其頃は惟前公方神主公方とて阿蘇家二つにわれて有之侯由にて定而惟前公方の者にて有之侯はんと亡父咄居申侯惟前公先筆に書出侯通に被成敗北侯故其方人共は降人と成或は令逐電山谷野外に身をほそめ罷在侯由に侯間定て左樣の者ともにて若君を背負薩摩江參間敷にもあらす侯故軍兵衛被申分尤と存侯惣て軍兵衛は大の男にて大力の由語傅侯亡父初て神主惟善侯江軍兵衛病死後に罷出侯へは亡父に孫兵衛と假名共被仰付上下被爲拜領なぜ當分迄罷出不申侯やと被仰出侯に多年在京藪醫傳受仕居申侯て參不申侯と申侯へは坂梨氏の老翁軍兵衛事を被申出昔物語被咄出侯に惟善公被仰出侯は其通に侯鑓に血のついて流れ侯をすさましく思ひ侯事夢の樣に有之侯と被仰侯と亡父折々咄聞被申侯事
これを要約すれば、
惟種公の後妻と惟光公、惟善公をお隠し奉ることについての記録。
阿蘇家臣の甲斐氏が最初に薩摩へ降伏したため、他の家臣も同様に従った。惟種公の後妻と二人の若君を保護するため、家臣たちは相談して決めた。まず、御文書と御宝物は男成明神の御宝殿に隠し、一太夫が守護する。後妻は小宰相(こさいしょう)と呼ばれる女性の良い隠居場所で安らかに過ごせるよう心を配る。
二人の若君はそれぞれ坂梨氏、渡邊氏、西氏の家臣たちが護衛し、奥目丸の深山幽谷に隠れながら守った。御兵粮は幽谷の隠れ家に運び入れた。
惟光公は西氏、惟善公は渡邊氏が肩に背負いながら、見張りを避けて移動。途中で襲撃を受け、渡邊は敵を撃退し、若君を守りきった。阿蘇家は当時、惟前公方と神主公方に分裂していた。惟前公方は敗北し、その家臣たちは降伏、または山谷野外に逃げ隠れた。
渡邊軍兵衛は大力の男であり、薮医として生き延び、後に再び神主惟善公に仕えた。その後、孫兵衛と名乗り、阿蘇家に忠誠を尽くした。
山都町郷土史伝承会 2025年02月16日 09時28分45秒
削除パスワード
ページトップへ
「公開する」で投稿をお願いします。
みなさん、投稿ありがとうございます。
せっかく投稿していただきましても「非公開」となっているため、私が投稿を見落として投稿していただいた方にお返事が遅れ大変ご迷惑をおかけしています。恐れ入りますが、投稿の際は「公開する」を選択して投稿していただきますようお願い申し上げます。
山都町郷土史伝承会 2025年02月16日 09時34分15秒
削除パスワード
ページトップへ
郷党歴代拾穂記について
初めて質問いたします。現在、大学の研究で加藤家の家臣たちのその後について調べております。矢部町史を読んでいた所、山都町にも在御家人制で細川家に召し抱えられなかった元加藤家の家臣たちが入ったとの記載がありました。郷党歴代拾穂記を見れば、もう少し情報が分かると思い、熊本県立図書館で閲覧したいと思っています。郷党歴代拾穂記には県立図書館で閲覧できる「天」と「地」だけなのでしょうか?他にあるとしたら、全部で何巻ほどあるのか教えて頂けますと幸甚です。
また、矢部手永の在地御家人(とりわけ名連石、上名連石の者たち)についての記録史料が他にあれば、教えて頂きたいです。
長文失礼いたしました。
志賀誠
Mail
2025年02月13日 03時19分21秒
削除パスワード
Re: 郷党歴代拾穂記について
郷党歴代拾穂記には県立図書館で閲覧できる「天」と「地」だけなのでしょうか?
→男成文書は全部で380点ほどあるそうで、私も全部は見ていません。
郷党歴代拾穂記に限って言えば、私は「天」と「地」しか見ていません。
また、矢部手永の在地御家人(とりわけ名連石、上名連石の者たち)についての記録史料が他にあれば、教えて頂きたいです。
→惣庄屋直触以上を在郷家人と称するならば、上名連石・下名連石に下記の人々がいたようです。
上名連石村惣庄屋直触・一瀬芳助
下名連石村惣庄屋直触・清藏
上名連石村一領一匹・松本長左衛門
上名連石村一領一匹・伴又次郎
下名連石村一領一匹・飯星文太
下名連石村一領一匹・古閑喜兵衛
上名連石村地侍・志賀権左衛門
下名連石村地侍・山村文左衛門
などなど(永青文庫・「町在」参照)
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時06分14秒
削除パスワード
ページトップへ
御所 麻山に分布している木村さんについて
東京都在住の木村といいます。実家は熊本市内であり、そちらの本家は山都町の御所です。高祖母の話だと、御所から麻山にかけて木村さんが多く分布していると聞きました。私の方でも調べて見ると、御所だけで7世帯、山都町内では21世帯あるそうです。阿蘇氏の違い鷹の羽紋や木工紋を使用している人が多いそうで、何か阿蘇氏と関係性があるのでしょうか?
阿蘇には木村遺跡と呼ばれる場所があったり、阿蘇家文書文明11年阿蘇社領宮地居取田検見馬上帳には木村里という地名が出てきたりします。気になります。
木村さん
Mail
2024年11月15日 04時25分42秒
削除パスワード
Re: 御所 麻山に分布している木村さんについて
書き込みを見落として、返事が遅くなり申し訳ございません。
あいにく、「木村氏」の由来については存じ上げていません。
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時51分00秒
削除パスワード
ページトップへ
井上清一さんについて
現在蘇陽町誌を読んで馬見原のことを勉強しています。関連して、宮本常一著の私の日本地図(阿蘇 球磨)(や同友館発行)を読んでいると、昭和37年頃に宮本常一が矢部を訪問した際に、浜町史蹟めぐり(20) 御廟(阿蘇惟豊公の事績3)を貴サイトで書かれている井上清一さんが矢部周辺の石橋を案内されています。
もしも、同じ井上清一さんであれば、是非とも柳田國男の元で学び柳田がたどりきれなかった島嶼や山陵なと日本の辺境を歩き「旅する巨人」とも称された民俗学者の宮本常一を案内された思い出など、宮本常一について語っていただきたいと思い一報いました。よろしくお願いします。
藤川浩二
Mail
2024年10月11日 06時11分44秒
削除パスワード
Re: 井上清一さんについて
投稿を見落とし、返事が遅くなって申し訳ございません。
私の師匠・井上清一先生はご推察の通り、宮本常一先生を案内した、井上清一先生です。先生は、あいにく平成20年に95才で天寿を全うされました。
山都町郷土史伝承会 2025年02月13日 18時14分03秒
削除パスワード
ページトップへ
八勢橋と矢部手永
1 石高について
矢部手永の石高(こくだか)は、1万9236石7斗2升6合2勺2才です。石高とは、田畑や屋敷などの土地の価値を「米の生産量」に換算したものです。
この石高は、石盛(こくもり)に面積を乗じて算出します。石盛とは、検地における田畑屋敷の反あたりの見積生産高のことです。石盛の基準は反当たり、上田が1石5斗、中田が1石3斗、下田が1石1斗、下々田が9斗です。畑は、上畑が1石1斗、中畑が9斗、下畑が7斗です。屋敷も石盛りの中に入っており1反当たり1石1斗としています。このような基準で矢部手永78カ村全部の石高が1万9236石7斗2升6合2勺2才です。
上田の反当1石5斗を坪で換算しますと5合になります。この5合というのが大人1人の1日分の食糧だとされています。奈良朝時代の1反は360坪でした。だから、1日に5合として1年間は食べる分があります。大人1人の消費量が1反作れば賄えるという基準で年貢が決められていたそうです。
本当に,一日5合食べていたという説もあれば,否あくまでも5合という数字の根拠が下級勤番武士の給与の計算基準値から来ているので実際に食べる数字とは関係ないと云う説もあります。
2 請免、上米、1分半米について
文政9年(1826)の矢部手永の請免(うけめん)は5314石6升、上米(あげまい)は459石9斗6升、1歩半米は288石5斗6升で、合計6062石5斗8升です。
請免とは、過去数十年の平均をとつて、特別の凶作でない以外は、豊凶の差別なく一定の免率(上記文政9年の場合は平均2ツ76「27.6%」)によって納める年貢のことです。上米とは上納米のことで、1歩半米とは凶作その他の用心の備えのための税のことです。
3 米俵について
米俵1俵というのは普通4斗ですが、それでは馬が運べないので、当時3斗5升を入れる大俵と3斗2升を入れる小俵とがありました。矢部手永からの年貢米は人馬で運ぶ都合上、小俵が用いられました。よって、矢部手永の年貢米6062石5斗8升を俵詰めしますと1万8946俵となります。
4 年貢米の輸送と夫役について
これだけの米が、八勢の目鑑橋を通って運ばれていました。八勢橋が出来る前は、人間が丸木橋のようなところを馬を引いて渡り、馬は川の中を渡っていました。そんな状態で川を渡りますので少し増水すると危なくて川を渡れません。せっかく八勢まで運んでも、その米を持ち帰らなければなりませんでした。後二里も行けば木倉の郡代の屋敷まで届けられるのに、また持ち帰るというように矢部の人々はたいへん年貢の輸送に苦労しました。
こういう年貢米の輸送は夫役で出ていました。藩に納める税金ですから、当時は女や子どもは夫役を務めることができません。夫役の人数は決められており、文政8年の記録によると上益城全体で1万2626人だそうです。16才以上40才までの男子が夫役として1年に2回ずつ出なければならない決まりです。矢部の夫役の人数が3166人、甲佐が2403人、木倉が1803人、沼山津が3160人、鯰が2094人、内46人が「土山瓦師殿」とあります。これは、益城の土山の瓦焼の人々が熊本城の瓦を夫役として出夫していたからです。
馬一頭に対して米俵2俵を担わせて,1人で馬3頭を引っ張ると1度に6俵しか運ぶことができません。矢部手永の年貢米1万8946俵をこの6俵で割ると3157人の夫役を要します。矢部の夫役人数3166人からこの3157人を差し引いたらわずか9人しか残りません。よって、矢部手永の夫役は、年貢米輸送だけで消費してしまうことになります。年貢米の輸送だけでこれだけかかるのですから、決められた夫役では足りないわけです。
5 布田市平次の死の真相について
ところが、もっと困ったことは、甲佐、御船の川塘が洪水のために崩れると、その割当夫役、災害夫役を出せと言って来ます。御船でも、甲佐でも、鯰でも、沼山津でも日帰りで夫役に出れます。ところが矢部は、菅尾境の安方、長成から行く者は片道だけでも1日かかります。往復2日掛かりです。向こうで十日間の割り振りがされると、12日掛かるわけです。どうしても向こうで寝泊まりして夫役を務めなければなりません。仮に宿賃を浮かせるためにお寺に泊まっても、お礼の夫役奉公をしなければなりません。このように余所の夫役に取られるために、矢部手永では道路の手入れが出来ません。
道路の手入れが出来ないと、当時はすべて駄載ですので、馬の歩幅は、ほとんど変わらないので、馬の足跡で道がガタガタになります。これを「馬しゃっくり」と言います。馬の通る道は、春秋の道普請でこれを削って均して通りやすくします。ところが、その夫役に出る人がたった9人では、どうにも為す術がありません。日向往還を初め矢部じゅうがこのような悪路です。悪路であるから、それだけ交通の便利が悪いし荷物も上って来ない。道路に恵まれないと文化も遅れます。布田保之助の父、布田市平次が、文化7年2月20日の惣庄屋会議で川普請のための夫役免除を願い出て自刃したのは、このようなの不合理を無くすためだったのです。
6 土山瓦
八勢橋ができたことで、矢部から年貢米を運ぶ人らが夜でも安心して通れるようになりました。御船の木倉に米を届けると登り荷を積んで、登り荷が無い場合は「土山瓦」を積んで帰りました。御船より益城方面へ一里程足を延ばすと、益城町小池に土山というところがあります。ここでは、益城町史に「一帯の水田下に広がる良質の粘土と、村の裏山である飯田山から採集できる燃料の松などの良い条件に恵まれて、瓦造りが営まれた。」とあるように「土山瓦」が取れます。この土山瓦は、上述しましたとおり,熊本城の屋根瓦にも使われました。
ちょっと余談になりますが、日本の石橋を守る会の上塚会長からこんな話を聴きました。昭和33年、上塚会長が城南町の豊田小学校にお勤めの頃の話です。生徒の保護者の自宅を訪問した上塚先生は、「ご主人は在宅ですか」と尋ねたところ、そこの奥さんから「土山の瓦焼きに行きました。」と返事があり、先生はその言葉とおりに真に受け帰られたそうです。ところが、自宅へ帰りそのことを先生のお母様に話されたところ、「それは土葬された、すなわち亡くなったことを指すんだ」と教えられたと、50年以上も前の話を懐かしくお話しして頂きました。先生がお住まいになる城南町でこのような口承が残っていると言うことは、土山と城南町の中間地である御船町にもこのような言い伝えが残っているかも知れません。さらには、もしたしたら、この口承文化が八勢橋を渡り矢部郷にも伝えられたかも知れません。大変興味深いお話しだと思います。
7 八勢橋架橋の影響
さて、矢部の人々らは、帰りの荷でこの土山瓦を馬に積んで帰りました。馬1頭で1坪分の瓦が積めるそうです。今まで、板葺きだった浜町の商店が瓦が手に入るようになり丈夫な居蔵造りとなり一種の防火帯ができました。
浜町では、このように八勢橋ができたのを機に屋根が瓦葺きとなり火災が減ったといいます。また,八勢橋の架橋により、雨の日でも夜でも安全に橋を渡れるようになりました。その結果,年貢米の輸送だけではなく、その他の物流や文化の交流にも大きな影響を与えました。
田上 彰 2020年01月08日 08時09分48秒
削除パスワード
ページトップへ
1
2
次へ
(17件中 1-10件)
お知らせ
カレンダー
掲示板
日記
プロフィール
投稿フォーム
商品紹介
アルバム
カレンダー
2025年4月
日
月
火
水
木
金
土
30
31
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
月間カレンダーへ
掲示板
最近のコメント
Re: 矢部手永郷士 志賀について
[4/13 山都町郷土史伝承会]
Re:木村家ルーツについて
[4/12 木村]
矢部手永郷士 志賀について
[4/12 志賀タツ]
> 万坂と千滝と言う地名の由来を教えて下さい!
[4/10 山都町郷土史伝承会]
Re:掲示板です。
[4/9 ひろ]
一覧へ
投稿フォーム
データがありません。
当サイトにおける不適切な表現や悪質な書き込み、お気づきの点等がございましたら
お手数をおかけしますが、こちらの
アンケート
にご協力をお願いいたします。