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 八勢橋と矢部手永
1 石高について
矢部手永の石高(こくだか)は、1万9236石7斗2升6合2勺2才です。石高とは、田畑や屋敷などの土地の価値を「米の生産量」に換算したものです。

この石高は、石盛(こくもり)に面積を乗じて算出します。石盛とは、検地における田畑屋敷の反あたりの見積生産高のことです。石盛の基準は反当たり、上田が1石5斗、中田が1石3斗、下田が1石1斗、下々田が9斗です。畑は、上畑が1石1斗、中畑が9斗、下畑が7斗です。屋敷も石盛りの中に入っており1反当たり1石1斗としています。このような基準で矢部手永78カ村全部の石高が1万9236石7斗2升6合2勺2才です。

上田の反当1石5斗を坪で換算しますと5合になります。この5合というのが大人1人の1日分の食糧だとされています。奈良朝時代の1反は360坪でした。だから、1日に5合として1年間は食べる分があります。大人1人の消費量が1反作れば賄えるという基準で年貢が決められていたそうです。

本当に,一日5合食べていたという説もあれば,否あくまでも5合という数字の根拠が下級勤番武士の給与の計算基準値から来ているので実際に食べる数字とは関係ないと云う説もあります。

2 請免、上米、1分半米について
文政9年(1826)の矢部手永の請免(うけめん)は5314石6升、上米(あげまい)は459石9斗6升、1歩半米は288石5斗6升で、合計6062石5斗8升です。

請免とは、過去数十年の平均をとつて、特別の凶作でない以外は、豊凶の差別なく一定の免率(上記文政9年の場合は平均2ツ76「27.6%」)によって納める年貢のことです。上米とは上納米のことで、1歩半米とは凶作その他の用心の備えのための税のことです。

3 米俵について
米俵1俵というのは普通4斗ですが、それでは馬が運べないので、当時3斗5升を入れる大俵と3斗2升を入れる小俵とがありました。矢部手永からの年貢米は人馬で運ぶ都合上、小俵が用いられました。よって、矢部手永の年貢米6062石5斗8升を俵詰めしますと1万8946俵となります。

4 年貢米の輸送と夫役について
これだけの米が、八勢の目鑑橋を通って運ばれていました。八勢橋が出来る前は、人間が丸木橋のようなところを馬を引いて渡り、馬は川の中を渡っていました。そんな状態で川を渡りますので少し増水すると危なくて川を渡れません。せっかく八勢まで運んでも、その米を持ち帰らなければなりませんでした。後二里も行けば木倉の郡代の屋敷まで届けられるのに、また持ち帰るというように矢部の人々はたいへん年貢の輸送に苦労しました。

こういう年貢米の輸送は夫役で出ていました。藩に納める税金ですから、当時は女や子どもは夫役を務めることができません。夫役の人数は決められており、文政8年の記録によると上益城全体で1万2626人だそうです。16才以上40才までの男子が夫役として1年に2回ずつ出なければならない決まりです。矢部の夫役の人数が3166人、甲佐が2403人、木倉が1803人、沼山津が3160人、鯰が2094人、内46人が「土山瓦師殿」とあります。これは、益城の土山の瓦焼の人々が熊本城の瓦を夫役として出夫していたからです。

馬一頭に対して米俵2俵を担わせて,1人で馬3頭を引っ張ると1度に6俵しか運ぶことができません。矢部手永の年貢米1万8946俵をこの6俵で割ると3157人の夫役を要します。矢部の夫役人数3166人からこの3157人を差し引いたらわずか9人しか残りません。よって、矢部手永の夫役は、年貢米輸送だけで消費してしまうことになります。年貢米の輸送だけでこれだけかかるのですから、決められた夫役では足りないわけです。

5 布田市平次の死の真相について
ところが、もっと困ったことは、甲佐、御船の川塘が洪水のために崩れると、その割当夫役、災害夫役を出せと言って来ます。御船でも、甲佐でも、鯰でも、沼山津でも日帰りで夫役に出れます。ところが矢部は、菅尾境の安方、長成から行く者は片道だけでも1日かかります。往復2日掛かりです。向こうで十日間の割り振りがされると、12日掛かるわけです。どうしても向こうで寝泊まりして夫役を務めなければなりません。仮に宿賃を浮かせるためにお寺に泊まっても、お礼の夫役奉公をしなければなりません。このように余所の夫役に取られるために、矢部手永では道路の手入れが出来ません。

道路の手入れが出来ないと、当時はすべて駄載ですので、馬の歩幅は、ほとんど変わらないので、馬の足跡で道がガタガタになります。これを「馬しゃっくり」と言います。馬の通る道は、春秋の道普請でこれを削って均して通りやすくします。ところが、その夫役に出る人がたった9人では、どうにも為す術がありません。日向往還を初め矢部じゅうがこのような悪路です。悪路であるから、それだけ交通の便利が悪いし荷物も上って来ない。道路に恵まれないと文化も遅れます。布田保之助の父、布田市平次が、文化7年2月20日の惣庄屋会議で川普請のための夫役免除を願い出て自刃したのは、このようなの不合理を無くすためだったのです。

6 土山瓦
八勢橋ができたことで、矢部から年貢米を運ぶ人らが夜でも安心して通れるようになりました。御船の木倉に米を届けると登り荷を積んで、登り荷が無い場合は「土山瓦」を積んで帰りました。御船より益城方面へ一里程足を延ばすと、益城町小池に土山というところがあります。ここでは、益城町史に「一帯の水田下に広がる良質の粘土と、村の裏山である飯田山から採集できる燃料の松などの良い条件に恵まれて、瓦造りが営まれた。」とあるように「土山瓦」が取れます。この土山瓦は、上述しましたとおり,熊本城の屋根瓦にも使われました。

ちょっと余談になりますが、日本の石橋を守る会の上塚会長からこんな話を聴きました。昭和33年、上塚会長が城南町の豊田小学校にお勤めの頃の話です。生徒の保護者の自宅を訪問した上塚先生は、「ご主人は在宅ですか」と尋ねたところ、そこの奥さんから「土山の瓦焼きに行きました。」と返事があり、先生はその言葉とおりに真に受け帰られたそうです。ところが、自宅へ帰りそのことを先生のお母様に話されたところ、「それは土葬された、すなわち亡くなったことを指すんだ」と教えられたと、50年以上も前の話を懐かしくお話しして頂きました。先生がお住まいになる城南町でこのような口承が残っていると言うことは、土山と城南町の中間地である御船町にもこのような言い伝えが残っているかも知れません。さらには、もしたしたら、この口承文化が八勢橋を渡り矢部郷にも伝えられたかも知れません。大変興味深いお話しだと思います。

7 八勢橋架橋の影響
さて、矢部の人々らは、帰りの荷でこの土山瓦を馬に積んで帰りました。馬1頭で1坪分の瓦が積めるそうです。今まで、板葺きだった浜町の商店が瓦が手に入るようになり丈夫な居蔵造りとなり一種の防火帯ができました。

浜町では、このように八勢橋ができたのを機に屋根が瓦葺きとなり火災が減ったといいます。また,八勢橋の架橋により、雨の日でも夜でも安全に橋を渡れるようになりました。その結果,年貢米の輸送だけではなく、その他の物流や文化の交流にも大きな影響を与えました。
田上 彰 2020年01月08日 08時09分48秒
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