宝暦の改革の一環として細川重賢は,養蚕製糸を奨励しました。惣庄屋間部公豊は,浜町から娘二人を藩士島已夸(しまいけい)宅に送り,機織りの技術を学ばせました。養蚕楮桑仕立役太田忠助は,下市の物産会所において女工2,30人をぼとを常時使って家内手工業の製糸を行いました。
当時の状況について,歴史家の奈良本辰也教授は,「明和年間(1764~72)には益城郡矢部地方の製糸業は,世の注目を浴びるほどになっていた。」(「日本の歴史」17町民の実力)と言っています。