3 矢部町
「ヤベ」の語源については、諸説有りますが、ここでは主なものとして
地理的な名称、歴史的な名称及び伝説的な名称について紹介します。
(1) 地理的な名称
谷間のことを、東北地方では「谷地(やじ)」と呼び、関東地方では「谷津(やつ)」、近畿中国地方は「谷地(やち)」、そして四国九州地方は「谷(や)」と呼びます。「ヤ」とは、「谷」のことで、「ベ」は集まりのことです。すなわち、「ヤベ」は 谷間の村の集まりのことです。
「矢部八谷(やべはったに)」と云う言葉があります。矢部には、東から緑川、大矢川、笹原川、東御所川、西御所川、五老ヶ滝川、御船川、上鶴川、亀谷川(大矢野原西側)、布勢川、筒川(北川内)、瀬峰川、勢井川、白小野川、千滝川、内大臣川及び鴨猪川等々、たくさんの川があり八谷(はつたに)を越える谷があります。ゆえに、「矢部八谷」と云う場合の「八」とは、「八百万」や「八百屋」と同じく「多数」の意味です。
このように矢部には、多くの谷があり、谷間ごとに人々の暮らしがありました。結婚も往々にして同じ谷間内で結ばれることが多く、長い歴史の中で各谷間ごとの姿形がつくられてきました。
御所には御所顔、下矢部には下矢部顔などと、顔を見ればどこの谷の人かが分かる、と云ったようなことが昔は有ったようです。
また、一つ谷が違えば文化も違うと言うように、互いに谷間どうしのいがみ合いも多かったようです。遺伝学から云っても、種は、遠い方が良いと云われます。
内大臣の中腹に、小松神社があります。平清盛の嫡男、小松内大臣重盛を祭った神社です。毎年、旧暦の4月4日の祭礼の日に、若い男女が、ここにお参りし出会います。それが「矢部男に砥用女」、あるいは「砥用男に矢部女」と云われる「重盛さん参り」です。今で云うところの合コンです。
このイベントを作ったのが、江戸時代の第5代矢部手永惣庄屋矢部勘右衛門重元だと言われています。この人の本名は古閑と云い、もともと熊本の人です。この人は、早くから杣頭(林業従事者の長)として、矢部に来て働いていましたが、その才能が認められ惣庄屋に任ぜられました。
小松神社は、もとの矢部営林署内大臣事業所から、約30分ほど山道を登ったところにあります。こんな山奥まで、登ってくるのですから、健康な男女でなければ登れません。若い二人は、神様のご縁によって、結ばれるのだから、ここで結ばれた2人の関係を、親と云えども簡単には拒絶できません。小松神社の近くには、「一夜畑」と呼ばれる地名も残っています。おそらく,若い二人はこの一夜畑で共に一夜を過ごしたのでしょう。
こうして、結ばれた2人は、翌年お礼参りと称して、再び小松神社に登ります。その際は、沿線上に杉の苗を植林する習わしとなっています。こうして、植林された杉苗が300年たった今も、小松神社の境内地に、大きくそびえ立ち、平成12年に熊本県からは唯一、この小松神社の大杉が、「森の巨人たち百選」に林野庁から指定されました。
通潤橋を架けた布田保之助さんは、矢部手永内に、たくさんの道路を造り橋を架けました。これは、人を通し、物を運ぶためです。しかし、それだけではありません。人と人との交流を図ることによって、この谷間間の争いを無くしたかったのではないかと思います。つまり、人の心にも橋を架け道を通したのが、布田さんの偉大な事業だと思います。
2021年09月04日更新