新着順 / 登録順
   1   
(1件中 1-1件)
山都町、田小野に分布する西姓について
初めて質問をさせていただきます。
私自身熊本生まれでもないのですが本家が山都町の田小野にあり
西姓であります。
自身で先祖の事を調べてはいるのですが、なかなか進展がなく
本家の方からはぼんやりと阿蘇家関係なのではないかとのこと。
そちらの方向で調べましてもなかなか確信できるものがなく、
もしご存知の事がありましたらご教授頂けると幸いです。
西 響 Mail 2025年02月15日 23時19分19秒
削除パスワード   
コメントする
Re: 山都町、田小野に分布する西姓について
お早うございます。

阿蘇家の西家といえば、西源兵衛惟景(これかげ)がいます。天正十三年八月に島津軍が阿蘇家領に侵入しました。そのとき、西源兵衛惟景をはじめ、阿蘇家の忠節の家臣達で協議のうえ、幼い大宮司と惟種夫人を目丸にかくまうことにし、西源兵衛惟景は幼い大宮司を背負って、目丸へと向かいました。そのことを記録した「拾集昔語」には、次のように記されています。

   『惟種公の後室并惟光公惟善公を隱し奉る事』
一 阿蘇の御家臣甲斐氏仁田水初發に薩摩江令歸伏侯故其外下いつれも同前にて惟種公の後室兩若御達濱の御所江被成御座候ては當分御家人を先として他は申に不及無心元侯とて元來金石の御家人に南郷矢部兩高森男成早川の城主兄弟渡邊甲佐中山の田上砥用上島の田上北里下城坂梨西北迫此人々一同に申談侯は後室は小宰相と云大女﨟と能き隱居の在所へ供奉仕御心安可被成御座候御代々の御文綸旨御寶物は男成明神の御寶殿に奉隱一太夫守護可仕侯其内綸旨口宣文書は坂梨氏背負可申侯此外の御寶物は濱の御所江人しらさる穴藏有之侯に隱置迫井手兩頭在番仕與風御母子樣共に被成御上京と申ふらし鳥居之大門をたて小門を開き注連を引廻し諸人出入令禁制可罷有侯御兩若君へは坂梨氏孫太郎西源兵衛渡邊軍兵衛此三人供奉仕砥用矢部境の奥目丸の深山幽谷へ忍ひ隱れ守り仕時分を待可申旨申合右の山中に各三人附居侯て御兵粮の運送は右 殘り侯者共彼幽谷の隱家に相送可申旨申談扨眞先に御綸旨御文書を坂梨氏背負次に惟光公を西氏肩に載せ參らせ次に惟善公御字をほそ殿と申侯を渡邊軍兵衛肩に載せ忍入侯處に御跡ゟ三人追かけ其若君はわれ/\請取守護可仕と申侯を渡邊ふり返り見侯て其手令推察侯己等共薩摩江御供可申とや内々見聞も致侯はん自分か手並見せんとて大岩のかけにほそ殿を置申侯て提たる鑓にて坂の上よりまくりかけ眞先の者を突伏侯へは眞下りにかいふつて迯侯故鉢巻に能々御取附被成侯へ大將はむつからぬものにて御座候ぞと申侯れ朱に成侯鑓を片手にひつさけ各の跡をしたひ參り侯由祖父折々咄被申侯亡父度々承侯と被語聞侯阿蘇の御家其頃は惟前公方神主公方とて阿蘇家二つにわれて有之侯由にて定而惟前公方の者にて有之侯はんと亡父咄居申侯惟前公先筆に書出侯通に被成敗北侯故其方人共は降人と成或は令逐電山谷野外に身をほそめ罷在侯由に侯間定て左樣の者ともにて若君を背負薩摩江參間敷にもあらす侯故軍兵衛被申分尤と存侯惣て軍兵衛は大の男にて大力の由語傅侯亡父初て神主惟善侯江軍兵衛病死後に罷出侯へは亡父に孫兵衛と假名共被仰付上下被爲拜領なぜ當分迄罷出不申侯やと被仰出侯に多年在京藪醫傳受仕居申侯て參不申侯と申侯へは坂梨氏の老翁軍兵衛事を被申出昔物語被咄出侯に惟善公被仰出侯は其通に侯鑓に血のついて流れ侯をすさましく思ひ侯事夢の樣に有之侯と被仰侯と亡父折々咄聞被申侯事

 これを要約すれば、

惟種公の後妻と惟光公、惟善公をお隠し奉ることについての記録。

阿蘇家臣の甲斐氏が最初に薩摩へ降伏したため、他の家臣も同様に従った。惟種公の後妻と二人の若君を保護するため、家臣たちは相談して決めた。まず、御文書と御宝物は男成明神の御宝殿に隠し、一太夫が守護する。後妻は小宰相(こさいしょう)と呼ばれる女性の良い隠居場所で安らかに過ごせるよう心を配る。

二人の若君はそれぞれ坂梨氏、渡邊氏、西氏の家臣たちが護衛し、奥目丸の深山幽谷に隠れながら守った。御兵粮は幽谷の隠れ家に運び入れた。

惟光公は西氏、惟善公は渡邊氏が肩に背負いながら、見張りを避けて移動。途中で襲撃を受け、渡邊は敵を撃退し、若君を守りきった。阿蘇家は当時、惟前公方と神主公方に分裂していた。惟前公方は敗北し、その家臣たちは降伏、または山谷野外に逃げ隠れた。

渡邊軍兵衛は大力の男であり、薮医として生き延び、後に再び神主惟善公に仕えた。その後、孫兵衛と名乗り、阿蘇家に忠誠を尽くした。
山都町郷土史伝承会 2025年02月16日 09時28分45秒
削除パスワード   
   1   
(1件中 1-1件)