以前,熊日新聞朝刊に葉室麟(はむろ・りん)さんの小説「紫 匂う」の後に続き五木寛之さんの長編小説「親鸞(しんらん) 完結篇」が連載されました。

 

 葉室麟さんの「紫 匂う」の中でも、さりげなく「山の民」が登場しましたが、五木寛之さんの小説の中でも「風の王国」を初めいろんな場面でいろんな職種の人々の生活ぶりが表現され興味深いものを感じます。

 

 上記「親鸞 完結篇」でも冒頭から、申丸と言う商人の話が出てきます。申丸は、恩人であり主人である犬麻呂に子供の時に買われ、犬麻呂の後継者として育てられた男です。その犬麻呂が死の直前に「商いだけが銭をうむのだ。銭が銭を生むのではない。そこをまちがえるのではないぞと」言い残したにもかかわらず、申丸は「銭が銭をうむ時代なのだ」と信じ、大寺から任されて金の運用を行っています。

 

  この犬麻呂の言葉は示唆に富みます。まるで、ミヒャエル・エンデがその著「エンデの遺言」の中で述べた「パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引上で取り扱われる資本としてのお金は、二つの異なる種類のお金である。」と言う認識と相通じるものがあります。

 

 ちなみに、申丸が運用するお金の利息は「五文子」だそうです。そこで、この「五文子」とは、年利にしたらどれだけなのかを調べてみました。「五文子」とは、月利5分で、年利にしたら6割だそうです。親鸞の時代すなわち鎌倉時代の利息は、五文子(月利5分)から八文子(月利8分)だったそうです。月利8分だったら年利にしたら何と9割6分です。1年後には、借りた約倍額を返さなければならないという高金利です。だから、あの時代に徳政令が出され、それに続く室町時代は徳政令を求める一揆が頻発したんですね。

2021年10月26日更新