(前回より続く)

 よく言われることなのですが、中世と近世とでは支配の仕方が違います。近世の支配は「面」に対して、中世の支配は「点と線」です。よって、南郷から順次南へ下ってきたわけではなく、飛び地みたいに飛んで、それが線になって行ったんだと思います。

 さて、阿蘇品先生が引用された文献について忘れないうちにと思い、自宅にある資料で分かる範囲調べましたので書き記しておきます。

 まずは、阿蘇品先生が引用された興国6年(1345)の「征西将軍令旨写(阿蘇文書)には次のようにあります。

 「肥後国矢部山事、為料所如元可被知行者、将軍宮御気色如此、仍執達如件
  興国六年二月十八日    勘解由次官花押
  恵良小二郎殿」

漢文の読み方はよく分かりませんが、
「肥後の国の矢部山の事、料所の為に元の如く知行されるべきは、将軍の宮もこの如くのお気持ちです。よって、件の如くお達し」
と言うような意味ではないかと思います。 
 発信者の勘解由次官というのは、後醍醐天皇の皇子で征西将軍宮として九州に下向した懐良親王の側近、宮方の九州に於ける政庁たる征西府の実力者であった五條頼元だそうです。そして、宛所の恵良小二郎は恵良惟澄です。
(次回へ続く)

2021年09月11日更新