(2) 歴史的な名称

 平安中期に、源順(みなもとのしたごう)によって編纂された百科事典「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」に、「益城郡宅部郷(ましきぐんやかべごう)」と記されています。これが、現在の矢部郷一帯に比定されます。

 「宅部(やかべ)」とは、「家部(やかべ)」のことで、大化改新(645)前に存在した部民制(べみんせい)の一つです。大和王権は、氏姓制度 (しせいせいど)と呼ばれる支配体制を取っており、地方の有力豪族は君と呼ばれていました。北には阿蘇の君がおり、南には火の君がおり、その間に楔(くさび)を打ち込むために、大和朝廷は矢部郷に家部(やかべ)を置いたと云われています。

 

 当時朝廷が、直接支配する土地として、屯倉(みやけ)が全国各地に置かれました。一方、朝廷の直轄地ではない皇室御用の産物を納める地を宅部(やかべ)と言うそうです。高野山文書(1146)によれば、野部(やべ・矢部)の貢(みつぎ)の御所(ごしよ)からは天然甘味料である甘葛汁(あまづらじる)が、毎年7斗、朝廷に貢納されていたと記されています。この「やべ」は「やかべ」と転訛したのではないかと云われています。

また、この御所と言う地名が現在も残っています。

 

 一方、矢部高校元教頭(後に校長)の小崎良伸先生は、平成13年6月10日付発行の「矢部高校同窓会だより」紙上にて、「矢部の語源は、矢作部(やはぎべ)ではないか?」との説を披露されました。矢作部(やはぎべ)も部民制(べみんせい)のひとつで、矢を作るのを職業にしています。弓を作るのは弓削部(ゆげべ)で、熊本市内の地名に「弓削(ゆげ)」が有ります。また小崎先生は、「矢村神社が、矢作部(やはぎべ)の氏神ではないか?」と推測されます。家部(やかべ)が部曲(かきべ)で、矢作部(やはぎべ)が品部(しなべ)の違いがあるものの、どちらも大化改新前の部民制(べみんせい)に、その語源を求める所に共通性があります。

2021年09月05日更新