第6 矢部における阿蘇氏

(1)入佐神社

 

 入佐神社は、弘安4年(1281)阿蘇惟景公が奉勅祭祀した神社だと云います。惟景公が、元寇の乱の際に出兵し、自分が使った弓と矢とを神社に奉納しました。惟景公と一緒に元と戦った肥前の原田氏に関して、井上清一先生から面白いお話しを聴きました。 

 

 原田氏が鎌倉幕府に送った文書にこんな事が書いてあるそうです。

「七月以降、賊船多く鷹島の風角に集まる。応戦の期睡して以て待つべき」

 「七月」は当時の事ですからもちろん旧暦です。「賊船」とは元の船のこと。「風角」とは風の集まるところ。「睡して以て待つべき」とは寝て待てと云うこと。原田氏は海族(海賊ではない)だったのでしょうか、台風の通る道を知っており、そこへ賊船を追い込んだと云うのです。果たせるかな、見事原田氏の作戦は成功し大勝利を得ました。

 

 このときに戦勝の証しとして敵軍の首を取るのですが、余りにも多いので人間には一つしかない鼻を削いで袋に入れ戦勝の証しとしたと云うことです。

 

 この原田氏の戦いぶりを見た惟景公は原田氏の子孫を召し抱え矢部に連れ帰ったというのです。それが、下大川の原田さんや木原谷の原田さんそして芦屋田や牧野の原田さんだと先生はおっしゃっていました。何でそんなことが分かるのか、先生亡き今は尋ねようもありません。

 

 入佐神社は、以前「六社権現」と称していたそうです。六社とは、恐らく現在の祭神のうちの健磐龍命、比咩神、国龍神、比咩御子神、比古御子神、若比咩神以上六神のことだと思います。入佐神社には、その他に応神天皇、神功皇后、菅原道真公も祀られていますが、前者の二神は元・木曽川八幡宮、後者の一神は元・菅原神社を合併したものです。健磐龍命は神武天皇の孫で阿蘇大明神ですね。本地垂迹説ではその本地は十一面観音菩薩とされています。 

 

 権現(ごんげん)は、日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号である。権という文字は「権大納言」などと同じく「臨時の」「仮の」という意味で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示す。

              フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 

 神武天皇76年に神武天皇(初代天皇)は孫である健磐龍命に西海鎮撫の命を下し、火の国に封じました。健磐龍命は、この年の2月に山城国宇治の郷から阿蘇に下向しました。この途中、宮崎において神武天皇の宮跡にその神霊を祀ったのが宮崎神宮の創祀とされます。そこから延岡に移り五ヶ瀬川をさかのぼり御嶽山の麓(御岳村)にしばらく留まり、成君・逆椿・村雨坂などを廻りました。そして御岳から馬見原に入り、幣立宮を建てて天つ神・国つ神を祭りました。そこから草壁に移り、阿蘇都姫をめとり阿蘇都彦と号しました。そして、阿蘇に移りました。以上、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しました。

 

 山都町が、健磐龍命ゆかりの地であることがおわかりだと思います。

ちなみに、のちの阿蘇神社の大宮司家(健磐龍命の子孫)が宇治氏なのは、健磐龍命の出発地が宇治であるからだそうです。        

(次回へ続く)

 

2021年09月16日更新