師匠井上清一先生は、生前こんなことをぼくらに語っていただきました。

「目丸の久吉」という言葉がありますが、御存知ですか?豊臣秀吉が島津征伐を計画しまして、天正15年、20万の大軍を九州に送り込んだために、矢部からも島津の軍隊は撤退したわけですね。秀吉が来たから目丸に平和が帰って、薩摩の兵たちは薩摩へ逃げ帰った。だから、大宮司親子をかくまっていた目丸の人達は秀吉を非常に恩人と思っております。

 昔から目丸で芝居する場合は、芝居の演目が何であろうと豊臣秀吉が出ないと承知せんだった。これは面白いものです。私も、7~8反、目丸に小作地を持っておりましたから、芝居の案内が来たときは花(ご祝儀)を包んで持って行きよりました。親父が「あんたが行け」というものですから、わざわざ花差し上げに行くと、桟敷に座らせてお神酒の真似なんかしていたのですが、その時に驚いたのは、「芝居が何でも、秀吉でないと承知せん」という言葉です。

 その時に見たのは忠臣蔵の五段目、山崎の場で猪が出るところがございます。勘平が鉄砲で打つ。その猪が出た後に、鎧を着た侍が出てきて、「羽柴筑前守久吉、用はなけれども罷り通る。」と言って、舞台をすーっと通っていくと部落の人たちはわーっと拍手喝采をして、それからやっと、舞台を真剣に酒を飲みながら見始める。

 このように目丸の人たちは、何にでも出るということで、「目丸の久吉」となります。私が終戦後戦地から帰って「若い者がおらんけん、何でもしてくれ」ということで、何でも頼みに来よかったです。だからその時したのは、人権擁護委員もしたし、裁判所の調停委員もしたし、商工会の副会長も消防団の団長も何でも引き受けたものだから、その時に親父が言ったのが、「あんたも『目丸の久吉』になったばい」と言うたのが何だろうかと思ったら、「目丸の久吉」は何でもかんでも面(つら)を出す、役なら何でも引き受けるということが「目丸の久吉」というので「これはいかんばい」と思って、それからは全部断って、今は調停委員と文化財保護委員だけしとります。

 そのように何でもかんでも引き受けるのが「目丸の久吉」で、昔から矢部地区で言い慣わされていたそうです。山都町名誉町民第1号となられた井上清一先生の人柄を感じさせるエピソードです。
2021年10月21日更新