石段横の燈籠に弘化三丙午稔(1846)と記されていました。肥後を治めていた佐々成政が、国衆一揆で秀吉から切腹を命じられた後、肥後の北半分は加藤清正が、南半分は小西行長が治めることとなりました。ちなみに、旧阿蘇郡は旧小峯村まで含め加藤清正の領地で、旧矢部町・朝日村は小西行長の領地でした。
加藤神社燈籠加藤神社加藤神社鳥居
2020年05月05日更新