(前回より続く)
浜町の水道町の水道は、勘右衛門の最大の事業であった。 勘右衛門は、現在の新町一帶、下市附近に水を引けば畑を水田にすることができるのに着眼して井手を築いて川の水を引く計面で工事に着手した。現在の水道町に築かれた井手塘は、全長二一〇間、最高二間、天端一間四尺、西側に巾四尺の犬走り、天端には巾四尺、深さ二尺五寸の井手が通っていた。この全長二一〇間の横塘の盛土の量は約六〇〇坪となるが、勘右衛門は、このぼう大な土を岩尾城の大手口にあたる亀の甲の首にあたるところから堀取った。現在の赤禿滝附近からである。赤禿という地名もこの堀取られた山肌から名付けられたものであろう。井手塘の両側の石垣は約五一〇坪で、この石は赤禿滝附近から出された。私のしろうと計算であるが、これに要した人夫は
井手塘の盛土 六〇〇坪 一三五〇人
石垣 五一〇坪 九一〇人
(但し、石垣築は石工及び人夫を含む)
合計 二二六〇人となる。
勘右衛門は、切取ったところを利用して職川の水を通して川の流れを変えた。そして岩尾城の大手口を廻って流れていた川床を水田とした。中尾部落の前に、小川が流れているとこるが昔の川の跡である。水道町の横塘を流れる水は、一部お廟の前一帯の水田を養い、大部分は下市の井手を流れて、下市一帯の水田を潤し、小一領神社の下を潜り、旧会所へ現在の種馬所のところにでて、染野附近の水田を養ってる。現在の山水楼のところから別れた一部の水は、瀬貝の大けやきの上を流れて現在の避病院の下一帯の水田を養っている。
現在でも、約十町歩の水田を養っているこの横塘は、築かれた当時はどれだけの水田を養っていたであろうか。元祿元年にさかのぼって当時の浜町の状況を考えてみると、浜町も横町も水道町もなかった。横町が元祿十三年、新町が元祿十五年にできたのである。当時は中町以東は一面の水田であった。
新町、横町一帶 約十町歩
下市 お廟付近 約五町歩
旧会所附近 約五町歩
避病院下附近 約四町歩
轟川旧川床(中尾前)約三町歩
合計 約二十七町歩
この用水路の完成によって一反歩五俵の収穫と見ても、毎年一三五〇俵の増収となる。勘右衛門の先見の明に敬服せざるを得ない。
その後、この横塘は、時代と共に変化した。第九代惣庄屋間部忠兵衛公整の頃の明和年間(1764~1772) 日向往還であった新町筋は相当交通量であったが、皆この横塘を乗り越えて往来していたが、大変不便であったので、町の巾だけ切取り、塘には大きな樋を架けてを通していた。通行の人々はこの樋の下をくゞつて通っていた。
その後、明治三十八年頃、現在の山水楼ところから石原辰雄氏宅の付近までの横塘が取除かれ、家が建並び、片側町であった水町が立派な町となり、井手は水道町の地下通潤橋をそのまままねて、サイフォン式の上げとなり、渡辺病院の横に吹上げていた。えびす屋横の記念碑の台になっている丸い穴石が、通潤橋式の石管である。サイフォンの内部にたまる土砂排出のために通潤橋式の木管が用意されていた。その後、昭和八年二月頃白糸道路の改修と共に横塘は、全部取除かれて、直径一尺のヒューム管が地下七尺に埋められ、吹上は更に延長されて現在のとおりとなった。取除かれた土は、一部拡張中であった新裏町に土帰りのために使用された。勘右衛門重元が築いた横塘は今はなく、わずか南端に面影のみを止めているが、工事場の赤禿滝は、浜町の景勝を引立てると共に、勘右衛門重元の不朽の功績を永遠に伝えるであろう。
2024年03月22日更新