「矢部郷浜町は、東肥後山中にあって、さらに東行すれば人煙のまれな日向の山岳地帯に入る。
浜町は、山間の集落ながら良質の水にめぐまれ、江戸後期ごろから醸造業がさかんになり、なかでも備前屋という造り酒屋が屋敷や倉など最も大きく、商いも手びろくやっていた。」

これは、司馬遼太郎著「翔ぶが如く」の一小節です。「備前屋」というのは、現在の「通潤酒造」のことです。
...
明治10年3月田原坂の戦いに敗れた薩軍は、同年4月21日に備前屋、現在の山都町浜町54番地・株式会社通潤酒造に於いて軍議を開き「人吉に籠ろう」との結論に至りました。

一昨日の「日向往還歴史ウォークin山都町・浜町阿蘇家散策コース」では、この備前屋が大きな目玉でした。

ここには、通潤酒造の広報担当菊池一哲さんが居ますので、彼に説明をお願いしました。お寺の副住職でもある菊池さんは、さすが慣れたものです。そつのない、しかも名調子の説明で、思わずぼくもその説明に聞き惚れてしまいました。ぼくも、彼ほど名調子でガイドができればと彼の語りを羨ましく思いました。

「翔ぶが如く」では、浜町を去る西郷のことを次のように記しています。

「西郷が、肥後矢部郷浜町を発ったのは、四月二十二日である。
粗末な竹籠に乗り、人夫が前後からかついだ。重いために、たえず六人が予備としてついて歩き、肩代わりした。肥後・日向さかいまでの数里は、すべて坂だった。その行路を、菜種梅雨のあわい雨が、やむことなく濡らした。(文春文庫・司馬遼太郎著「翔ぶが如く(九)」
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