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菅原神社
 入母屋造の屋根で、なかなか趣のある建物です。見た目は御堂だけど、中には神像が祭られているので、ここは社のようです。
 正面向かって右側に男像と男女像各1体、正面には小さい男像1体そして左側には、まだ男女像各1体、合計6体の神像が安置されています。正面の小さい男像がここの主祭神だと思いますが、どうやら菅原道真公のようです。残る6体の神像はいったいどなたを祭ってあるのでしょうか?
 神社明細帳で調べてみました。神社明細帳と云うのは、明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然令。慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)までに出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達など一連の通達の総称)に基づき、全国の神社を取り調べ作成したものです。これには、所在地、神社名、祭神、由緒、社殿間数、境内坪数並びに地種その他が記載してあります。
 ここの神社明細帳には、次のように記されていました。
所在地は「熊本県管下肥後国阿蘇郡菅尾村大字塩原村字馬ノ平」で「無格社」なっています。
 社格とは、神社の格のことで長い神社信仰の中で生まれてきた崇敬上の区別で、戦後、これは廃止されています。これには、官幣大社・官幣中社・官幣小社・別格官幣社(歴史上に大きな功績のあった「人物」を祭る)、国幣大社・国幣中社・国幣小社、さらに府社、郷社、村社、無格社とあります。官幣社は、天皇及びその親族、功臣が祭られている為、例祭、祈念祭、新嘗祭に幣帛が皇室より奉られる一方、国幣社は国土経営に功績のあった神が祭られている為、これが国庫から奉られる点での違いがあります。大社・中社・小社 の区分については、条件的にはっきりと基準が決められていた訳でなく、だいたいの社殿の規模、すなわち境内の面積や社殿の大小によって区分されていました。府社、郷社、村社は、それぞれの属する府県市町村から幣帛を供進されていた神社のことで、無格社はそれから洩れた神社です。(http://ta.sakura.ne.jp/~sakura/shrine/chishiki/shakaku.htmlから引用)ちなみに、阿蘇神社は官幣大社で、八代宮は官幣中社、菊地神社は別格官幣社、そして 藤崎八旛宮は国幣小社です。小一領神社や男成神社は郷社です。
 話しを戻します。件の社は「菅原神社」で、ご祭神は、やはり「菅原道真公」でした。そして、合併祭神として「沖津彦神・沖津姫神」が祭られています。これが、おそらく男女ペアーになっている神像の事でしょう。この沖津彦・沖津姫と云う神様はどんな神様なのでしょう?調べてみたら八岐大蛇退治で有名な早須佐の男の命(はやすさのおのみこと)と櫛名田比賣(くしなだひめ)の孫に当たり竈の神でした。神社明細帳に依れば、「荒神森と称す 同村字南受256番地鎮座」とありますので、もとは塩原字南受256番地の荒神森と称されるところに鎮座されていたのをこの菅原神社に合併したようです。例祭日は12月15日で信徒は25人、受持神官は弊立神社祠官春木惟信と記載されてあります。
田上 彰 URL Mail 2015年03月04日 09時01分34秒
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穴の口隧道堀削道誌
 立田幸広さん宅に隣接する菅原神社に次のような内容が記載された額が掲げられています。

  穴の口隧道堀削道誌

黒原村中程と犬渕を結ぶ中間穴の口道は現況から想像がつくように火伏堂跡の岩石が大きく川に突き出していたので人は川辺に添って岩原を通るホンの徒歩道であった
一歩誤れば川に落ち込む危険道で牛馬は中程の渡瀨を探し又は犬渕堰梁等を往来したのである
増水時は人は火伏堂跡を山越し牛馬は拝所の四叉路に廻った
それは人や村が始まって以来長い間のことであった
この危険な不便道をこの儘捨ておくものかと一掃すべく奮起されたのが當時の黒原村全十一戸の先人方であった
明治三十八年春を待たず正月から休日祭日を返上農閑期を有為に利用して工事に専念されたのである
丁度我国は興亡を賭ける日露大戰争のさ中にもかかわらずよくも決意されたものである
しかし現今のように機械化された時代と雲泥の相違で無細工な鶴嘴と鍬、畚で外には何一ツの道具もなかった
而し先人方が人のため村のため後世の為にと強い団結と努力の結果堀削道幅四尺五寸長サ十五間、隧道髙サ五尺幅四尺五寸、長サ十五間延長三十間に及ぶ大工事は翌三十九年春四月見事貫通完成を見たのである
執念岩をも貫くことを如実に物語るもである
この時の先人方の昇天の歓びはいかばかりかと察するに余りあり手を取り合って万歳万歳と天にも届かんばかり髙らかに歓声を続けられたことであろう
これを記念して隧道口に記念碑を建らる 
今以ってここを穴の口と呼ぶここで附記すべきは現在と違い国、縣、町村の補助金、助成金等一切なく諸経費、夫役総て地元負擔の單独工事である
僅か十一戸の工事としては想像以上無理な大事業であった先人方の汗血の苦難察するに到底文言に表すことを得す我等今に至るもこの恩惠に浴す村人よ先人方のご苦労を偲び大事業を讃へその大遺業に感謝し報恩の念忘れることなく後世に永く傳へるべきであろう
昭和五十五年三月(西暦一九八〇年)
       謹書 満藏
記念碑は六十一年間穴の口にあったが昭和四十年部落道改修時公民館の傍に移す裏面に碑文年次戸主名あり
田上 彰 URL Mail 2015年03月04日 08時55分12秒
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2015年03月04日 08時50分50秒
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塩原集落は、集落内禁煙を目指しています!
塩原女性部会では、公民館敷地内はもちろん、塩原集落地域内の全面禁煙を目指しています!

塩原女性部会 2014年03月30日 12時42分28秒
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