今日は、宝暦5年の項の記載を紹介します。
(宝暦五年)同年乙亥四月廿七日下組庄屋「下組村ハ名連石村ト改」源次良上組「今上名連石ト云」村と地方依公事久敷禁籠之処、今日於小川原「下組村ノ内」」ニテ刎首「御郡代椋梨角兵衛・御惣庄屋中島長右衛門・其外手永御家人中出、鯰手永一領一疋布田弥平太刀ドリナリ」珍事故見物人多シ
意訳すれば 御所は当時、上名連石村と名連石村(中名連石村)とに分かれていました。
宝暦5年(1755)年4月27日に下組(名連石村)庄屋源次良、上組(上名連石村)と地方公事(じかたくじ・郡部の裁判)によって、久しく牢に閉じこめられていたところ、今日小川原(名連石村内)に於いて、首を刎ねられた。御郡代椋梨角兵衛・御惣庄屋中島長右衛門・そのほか手永御家人が皆出て、鯰手永一領一疋布田弥平太が介錯した。珍しいことなので見物人が多かった。
この事件については、郷土史研究家の倉岡良友先生から教わり、処刑が行われた現場にも先生に連れて行ってもらいました。よほど、衝撃的な事件だったのか矢部手永内は勿論のこと甲佐手永の庄屋の処にもこの事件を記した日記などが残っています。
それらに依れば、名連石村庄屋源次良が問われた罪は、「新地の免を作り新高地の入組をたくらんだ」とされています。当時、新地は熟田ではないので本税はかかるが諸公役・諸出米銀は免除されていたそうです。その年貢をごまかした咎のように見えますが、それなら何も上名連石村と争う必要はありません。
倉岡先生の調査に依れば、どうやら上記断罪の理由は建て前で、大矢山採草地を巡る入会権の争いのようです。詳しいことはわかりませんが、元文四年(1739)の頃からこの紛争は続いており、名連石村庄屋源次良がその責めを負い、首を刎ねられる結果となりました。
源次良が首を刎ねられた場所は、JA上益城名連川野菜集出荷所の横から開パー道路を登って行くと供養塔が右手に建っています。少し土が持ってあり、これが首切りの刑を行うために築いた土の壇すなわち土壇場であることを倉岡先生から教えて頂きました。この土壇場の前には、刎ねた首が落ちるように穴が掘られるそうです。
余談ですが、明治22年町村制施行の際に下名連石村と中島村に属することとなった田小野村とが合併し、その役場を下名連石村に置くことまで決定しましたが、下名連石村に対して御所村、黒川村から合併申込みが強くなされたので、下名連石村は御所村及び黒川村と三か村で合併して名連川村となりました(矢部町史より)。
2021年11月29日更新