矢部勘右衛門重行が召し捕られた正徳4年(1714)から矢部手永は、矢部手永と中島手永とに二分され、享保17年(1732)には、一旦は元の通り統一されたものの、宝暦2年(1752)から再び二分されました。

 

 当時の中島手永の村々は、南田村、長田村、芦屋田村、山田村、市原村、原村、中島村、木鷺野村、金内村、田小野村、杉村、寺川口村、上司尾村、大野村、片平村、梅木村、黒木尾村、上名連石村、下名連石村、今村、入佐村、下大川村、畑村、男成村、稲生原村、篠原村、山出村、麻生村、川俣村でした。

 

 そして、中島手永の会所を入佐に置きました。  南田観音堂にある鰐口には「享保十四年四月吉日氏子中 上益城郡中島手永南田村」という鋳銘があり「中島手永」名が残されています。

 

2021年11月25日更新