矢部勘右衛門重元の子・矢部勘右衛門重政が第6代矢部惣庄屋に就任したのが元禄7年(1694)です。「拾穂記」の元禄13年(1700)の項には、「同13年庚辰濱村の内に新町建欲而願書上る」とあります。それまでの浜町の町並みは現在の仲町筋のみでした。それが、新しい町建設のために、今から321年前に藩に対して町建設を願い出たのです。

 その結果、「同14年新町建事御免」、そして「同15年壬壬春新町始めて而建」 となりました。元禄14年現在の横町、そして翌年の元禄15年に現在の新町通りが完成しました。

 たった2年間の間に、これだけの町並みができました。いったいどういう時代背景があったのでしょう。おそらく、先代の矢部勘右衛門重元が惣庄屋を退役した後も上益城御山奉行、その後さらに御国中御山総目付に任じられ、緑川筋の植林等に励んだので、熊本辺りからの移住者が増え、日常品の供給が必要となり町つくりが許されたものだと思われます。

 新町つくりを行った矢部勘右衛門重政と新町とはもう一つ大きな関わりがあります。その事について「拾穂記」の宝永の項に記してあります。

 「宝永元甲申年(1704)矢部勘右衛門重政現当二世為祈願大像之地蔵一躰自彫刻して極楽寺安置 古寺なり今浜村の地蔵堂なり」

 毎年7月24日には新町で地蔵祭りが行われ極楽寺のお地蔵さんが年に一度ご開帳されます。このお地蔵さんこそ、矢部勘右衛門が自ら彫ったものです。別名火伏地蔵とも呼ばれています。これにより、極楽寺が古寺の名称であることもわかります。正しくは、このお寺のことを「安養山極楽寺」と称します。新町の北側中央の丘(金比羅さん)の中腹にあります。

 300年以上の時を経た今日に於いても、この極楽寺地蔵祭りを地元新町が行っているのは、新町造りを行ってくれた矢部勘右衛門重政への感謝の意味も込めています。

2021年11月23日更新