「拾穂記」には、「天和2年(1682)8月杣頭勘右衛門御惣庄屋仰せ付けられる。勘右衛門は、熊本小沢町の産にて矢部に来たる杣師なり。しかるところ井手兵右衛門退役により跡役矢部御惣庄屋仰せ付けられしばらく勤めて退役し、古閑長左衛門と改めた」と記されています。
第5代矢部惣庄屋矢部勘右衛門重元の事ですね。これも、町史に紹介してありますので以下引用します。
重元は熊本小沢町の生まれで、早くから矢部に来て杣頭として働いていた。すぐれた才幹を認められて、天和2年(1682)井手家4代の跡をうけて惣庄屋に任ぜられた。
在任中入佐古閑の河川改修による開田、浜町轟川が古川町より中尾方面へ曲折して流れていたものを現在のように改修し、あるいは水道町に元禄井手を通して下市方面に新田を開くなど、土木工事を盛んに行って産業開発に大いにつとめた。
なお正福寺、吉祥寺、西安寺の三寺が建立されたのも重元の出願によるものであった。
退役して名を古閑長左門と改め瀬貝(現役場付近)に隠居したが、上益城御山奉行、その後さらに御国中御山総目付を仰せ付けられ、緑川筋の植林等に大いに功績をあげた。享保10年(1725)81歳でなくなったが、その墓は正福寺境内にある。
2021年11月22日更新