拾穂記によれば、江戸時代に入り慶長5年(1600)に入佐の報恩寺、元和元年(1615)には仲町の東雲寺、同年原村の正光寺、さらには元和2年(1616)には同じく仲町の高福寺と、矢継ぎ早に真宗系のお寺が創建されています。
慶長17年(1612)には、愛藤寺城が解き崩され花畑邸の材料にされ、同時に井手玄蕃允豊治が愛藤寺より宮原(現在の浜町)に移り住み矢部御惣庄屋となりました。
延宝2年(1674)に矢部兵右衛門政夷は仏原村結城半太夫・十太夫召捕りのため彼の地に到った処、彼の兄弟は逃れがたくして自殺し、その妹・左吾という女を生け捕り熊本へ送ったと記されています。
これがいわゆる「仏原騒動」と称される事件です。この事件については、矢部町史でも紹介されていますので、それを以下引用します。
綱利時代の延宝2年(1674)の正月、矢部手永の仏原の地士・結城半太夫、十太夫の兄弟の家に、親類の者や隣村菅尾手永方ケ野村の百姓、遠くは沼山津手永の者も加わり、大勢集って騒ぎ刀、槍、鉄砲などの武器も揃えて不穏な様子が見受けられた。庄屋源左衛門は直ちに惣庄屋矢部兵右衛門政夷に報告した。政夷はさっそく奉行所へ届け出るとともに会所役人及び地域の御家人などの手勢を引きつれて取りおさえに向かった。最も頑強に抵抗した結城兄弟も兄の半太夫が鉄砲にあたってたおれ、弟十太夫も大勢にせめ立てられて遂に自害して果てた。こうして残りの者
は捕えられた。
その後藩庁から取り調べのために佐藤八郎右衛門が派遣され厳重な捜査の結果、関係者は総て捕えられ獄に投せられた。総勢53人の投獄者はきびしい詮議をうけ、うち19人は獄中で死亡し、13人が斬首の刑に処せられて長六橋にさらされ、残りは許されて事件は落着した。
この事件で結城兄弟はもと愛藤寺城代であった結城弥平次の一族であることから、キリシタンとの疑がもたれ江戸へも報告したので、8月にいたって幕府は渡辺大隅守を送って取調べに当たらせた。しかし首謀者である結城兄弟が死亡しているのでその証拠はあがらず、キリシタンの反乱であるかははっきりしなかった。
現在残っている記録でも正確な事件の真相は分からない。これは近世の百姓一揆というよりも、地方の不平小豪族の抵抗としての「土豪一揆」であるといわれている。しかし多くの百姓が同調していたことは、重税にあえぐ不満反抗の気持が溢れていたことがうかがわれる。仏原にはその跡に供養塔及び記念碑が建てられている。
2021年11月19日更新