「文禄4年(1595)に耶蘇宗(キリスト教)に帰依した結城弥平次が矢部郷中の神社仏閣を破却した。神像仏像取り集め悉く焼き捨てた。このため亡失せし所多し、この時、男成社も破却せん、男成越前守家治と云う者は郷内の農民を率いて七里川辺に出向いて防戦したけれど勢力が少なくて破れた。」
阿蘇氏が没落し、佐々成政が肥後の国主となったものの、成政は国衆一揆で失態を犯し豊臣秀吉に切腹を命じられました。秀吉は、成政を処分した後、肥後を加藤清正と小西行長とに分け与えました。そして矢部は、小西行長の領地となりました。小西行長はキリスタン大名で、愛藤寺城代結城弥平次も熱心な信者です。弥平次は、行長の意思に副って郷内の神社仏閣を焼き払う挙にでました。拾穂記の上記記述の部分は、まさしくそのときの出来事を記したものです。男成越前守家治はこの七里橋(下川井野譲原)の戦いに破れ男成神社も焼き払われたと云います。わずかに御神体などは、ひそかに麻山の山中の洞穴に隠すことができたそうです。その洞穴のことを地元では「男成の岩屋」と呼んでいます。
2021年11月18日更新