今日は、明和4年(1767)5月12日清和・郷野原で起こった事件についてです。
〇(明和四)五月十二日郷原村西安寺ニ旅人止宿ノ事相聞御吟味アリ、所謂日向ノ者ヲ高森町ノ者井無田郷原村ノ境竹山ニテ殺タル由御奉行へ聞へ其事申来リ古閑勘次会所手代次右衛門為吟味西安寺ニ行、西安寺顔色失ヒ声振口上ニ日向之者弐人夫婦ニ候哉、柏神指尾勘之助と申者連来り宿をかしくれと申候ニ付三月廿三日晚止宿致させ候処、翌廿四日雨天同廿五日雨天故三夜舎り候其翌日立申候、其後ノ事ハ存不申由被申上候、此事菅尾矢部にかかり大分むつかしき事也、郷原惣百姓•井無田庄屋組頭会所ニ呼出御吟味、御郡代衆より西安寺へ口上書致させ組合之内より熊本へ持参仕候様ニとの事也西安寺閉門なり
〇同廿三日古閑勘次組合正因寺同道而出府
〇西安寺止宿ノ旅人ハ日向国本庄村直右衛門卜云者ナリ、勘之助悴五平次西安寺ニ遣候紙面ニアリ、扨旅人宿仕セ候者牧野村惣次郎 犬飼村権助
井無田村源八 牢屋ニ召籠ラル、郷原組頭仁右衛門ハ質部屋被召籠
〇同六月廿四日御郡代衆ヨリ御状アリ
郷原西安寺儀先達而烏乱者宿を借シ心得違致候ニ付相慎居候様ニ申達候、今度ハ其分ニ而最早慎ニ不候、以来有躰之儀於有之者被仰付筋有之候間吃度相改可被申候
此段御申渡可有候以上 上益城御郡代
六月十二日
郷原西安寺組合
寺社中
仮名交じりなので、このままでも読めるかとは思いますが、一応ぼくなりに解読してみます。
〇明和4年5月12日郷原村(現在の郷野原)西安寺に旅人が泊まった事についてお尋ねがありお調べがあった。いわゆる日向の者を高森町の者が井無田郷原村の境竹山にて殺したるよし、御奉行に聞こえそのことを申し来たり、古閑勘次及び会所手代次右衛門が取り調べのために西安寺に行った。西安寺顔色をなくし声震わせ述べるに日向の者二人夫婦でした。柏神指尾(柏村上差尾)勘之助と申す者が連れてきて宿を貸してくれと申すもので3月23日晩泊めさせましたところ、翌24日が雨で、同25日も雨だったので三夜泊まりました。その翌日出立しました。その後のことは存じませんと申し上げました。この事件は、菅尾手永・矢部手永に係る難しい問題だ。郷原百姓・井無田庄屋組頭を会所に呼び出しお調べ、御郡代衆より西安寺へ口上書(陳述書)を提出させ組合の内より熊本の藩庁へ持参するようにとのことなり西安寺閉門なり。
〇同23日古閑勘次組合正因寺同道にて出府
〇西安寺に泊まった旅人は、日向国本庄村直右衛門と云う者なり、勘之助倅五平次が西安寺に遣わした書面に記載があった。さて旅人を泊まらせたのは、牧野村惣次郎、犬飼村権助、井無田村源八、これらの者は牢屋に召し籠められ、郷原組頭仁右衛門は質部屋(人質を置くための建物)に召し籠められた。
〇同6月24日御郡代衆より御状(申し渡し)あり
郷原西安寺儀 せんだて乱れ者に宿を貸し心得違い致したので相慎み居る様申しし渡した、今度はその分にて最早慎みに及ばざる、以来有り体の儀これ有に於いては仰せつけられ筋これありそうろう間はきっと相あらためて申されべくそうろう此の段申し渡しべく有候 以上 上益城 御郡代
6月12日 郷原西安寺組合
寺社中
明和4年当時の矢部手永の惣庄屋は、第9代間部忠兵衛公豊です。あの宝暦の改革で疲弊した矢部を養蚕製糸で立て直してくれた惣庄屋です。その時代に郷野原で事件が起こりました。
日向の者を高森町の者が、井無田と郷野原との境の竹山で殺したというのです。
しかも、その殺された者を西安寺が泊めたとのことで、会所のお調べがありました。その結果西安寺は、柏村上差尾の勘之助という者が日向の者二人夫婦を連れてきて宿を貸してくれと言い、3月23日夜に泊め、翌々日とも雨だったので合計三夜泊めた。26日に出立しその後のことは知らないと答えています。
西安寺に泊まった旅人は、日向国本庄村の直右衛門と言う者で、牧野村惣次郎、犬飼村権助、井無田村源八が関係あるみたいなのですが、どの様な関係で入牢させられたのか、ぼくにはよく理解できません。さらに郷原の組頭仁右衛門まで質部屋に入れられています。どの様な責任があったのでしょうか?西安寺については事件直後に閉門させられたので、今後は最早謹慎に及ばないと言うことなのでしょうか?
最後の「以来有躰之儀於有之者被仰付筋有之候間吃度相改可被申候」は、「これからも同じようなことを行えば、あらためて処罰する」と言う意味だとは思います。何となく分かったようで分からない。正しくは、どう解釈すればよいのでしょうか?
2021年12月16日更新