「明和四丁亥年二月男成社御免ノ芝居三ツノ内、相撲芝居は鄙ニテ興業成難故相撲一ヲ歌舞伎二ツニ願替申上候処御免アリ 相撲一歌舞伎二芝居二カワル」

 

明和4年丁亥(ひのとい)年2月に男成社が許可を得た芝居3つの内、相撲芝居は鄙(いなか)にては興業が難しいので、相撲一つを歌舞伎2つに変更を申請したころ許可になった。(相撲1歌舞伎2芝居にかわる)

 

「同年五穀成就御祈祷ニ付御郡代衆立願解共ニ御社参有来候処、当年相止宝曆七丁丑年ヨリ明和四年迄都合十一年也、御郡代男成社小一領社ニ御社参相続セリ当年其事止、唯御祈待執行ハカリ男成伊与相勤」

 

同年五穀成就の祈祷について、御郡代衆が願立て願解き共にお参りにおいでになりましたが、今年はそれをやめ、宝暦7年丁丑(ひのとうし)より明和4年まで都合11年間、御郡代が男成社及び小一領社にごお参り続け今年そのことをやめ、ただご祈祷執行だけ男成伊予が勤めました。

 

宝暦7年と云えば、あの「御国中一手永限於大社五穀成熟御祈祷仰せらた年」です。そして、その翌年から民衆による八朔祭が始まりました。爾来明和4年まで11年間毎年御郡代衆が男成社及び小一領社に五穀成就の爲のご祈祷のために社参したのですね。

2021年12月15日更新