山陰の出雲大社が出雲族の部族神でその直系子孫の家が出雲大社の宮司である如く、阿蘇神社の大宮司が阿蘇大明神の後裔で、千家と共に神孫直系の家柄として皇室と共に連綿として今日に到つたことは、古い政治形体である祭政一致の結果であろう。
阿蘇族の祖先神崇拝による信仰的の団結と、阿蘇族の総本家とも云うべき大宮司家の神領統治による領守的地位と更に之に鞏固(きょうこ)にした宗家尊敬の封建性とが、二千年以上百代にわたる繁栄を保ち得た原因であろう。
太古九州は三つの部族によって分割されていた。北九州には住吉三神及綿津見神(海神) を部族神と崇拝するその子孫である。阿曇氏(あずみうじ)と其の一族が航海に長じ海上権を握り、遠く三韓や支那迄進出して大陸文化を伝えた福岡の遠賀川一帯がその中心である。
一方九州南部には霧島神宮の瓊々杵尊、鹿児島神宮の彦火々出見尊の後裔が隼人部族を統卒していた。九州の中央に居住した阿蘇族は大体肥後一円及豊後の一部、日向の一部等を占めていた。これは部族である阿蘇神社の分布状態によって知ることが出来る。
当時次第に勢力を増強しつ々あった大和朝廷は九州に於ける勢力拡張の根拠地として阿蘇及び阿蘇族に着目したことは当然であろう。
かくして神武天皇の皇孫・健磐龍命(たけいわたつのみこと)は九州鎮護の大任を帯び阿蘇へ下られ、阿蘇族の草部吉見神の娘・阿蘇都媛(あそつひめ)をむかえて妃とされ阿蘇郡宮地附近に宮居を定め国土経営に当られた、
即ち阿蘇大明神である。其の子・速瓶玉命(はやみかたまのみこと)は阿蘇国造に任ぜられ阿蘇族を率いて皇化にまつろわぬ土賊共を平げ人民撫育に力を盡され、又其の子・惟人命(これひとのみこと)に命じて祖先を祀らしめられた。これが現在の宮地の阿蘇神社の起りで惟人命は大宮司の始めである。
大化改新後筑紫の一国であった阿蘇国は益城と共に肥後の一部となり、国造であった阿蘇氏は郡司として阿蘇・益城の二郡を領し神職を兼ね祭政二権を掌握して九州中央に地位を固めた。その頃阿蘇健軍・甲佐、郡浦の各神社を阿蘇四箇社と称しその神領は五郡(阿蘇・上下益城・飽託、宇土)に及び八千町余であった。
日本の中央部である京都では平安奠都(てんと)以来久しく大平が続いたので藤原氏一門は詩歌管絃に其の日を送り政治を頼みる者もなかった。随って地方政治も大いに紊(みだ)れ地方長官として赴任した国司も重税を徴収して私腹を肥し一日も早く京都へ帰る事のみ考える有様であった。都では藤原道長が関白としてこの世をばの歌通り藤原氏全盛を謳歌していたが政治堕落は不逞の輩の横行となり良民は苦しみ藤原氏の政治を怨む声はいたるところに起つていた。乱世と藤原氏衰亡の兆はもう現れていた。諸国の豪族達は自衛の方法を講じなければならなかった。
浜町に阿蘇大明神が勧請せられ神社が建立せられたのは丁度この頃である。後一條天皇の御宇、寬仁2年(1018)である。大宮司家が乱世に備えて領内守護の目的を以て阿蘇大明神を勧請したことは部族の団結を計ると共に宮司を中心とした権力集中の一方策とも考えられる。兎に角名実共に阿蘇族として浜町がその勢力圏内に含められたのは神社の建立に始まる底津磐根(そこついわね)に宮柱太く最初に建立された位置は本魚屋呉服店と川万屋旅館の中間で裏通に近い石囲の中に南天を植えてあるところが神殿の中心であると伝えられる。
その附近に柳の巨樹があったので神号を柳本大明神と稱えた、境内は広大で東の御手洗である瀕具の大楼の下の清水より西の御手洗である塩井手大欅の清水迄が境内であった。
天然記念物の欅も当時は小さく勿論浜町もなかった鬱蒼樹木の中を清水が流れる荘厳な神域であった。
壮大な古代史ですね。出雲族、阿蘇族、阿曇氏、隼人部族が出て来て、「底津磐根(そこついわね)に宮柱太く」などと祝詞に出てくる詞を使われているところなんて、私が知る井上先生とは、また別の一面を感じました。
2024年02月05日更新