「塩井手の大ケヤキ」
史蹟の町の象徴として、浜町を訪ねる人の第一番に目に入るものは、この大ケヤキであろう。樹下に湧く清水と共に、昔から有名である。この清水は、昔小一領神社が柳本大明神として、阿蘇家の尊信篤く、現在の中町新町横町一帯が境内であった頃の、「西の御手洗」であった。大宮司家へ出仕の為に、御船方面より来た城主や重臣達は、先ず上司野(上司尾)の駅亭で旅服を改め、大ケヤキ附近の下馬野で馬より降り、この清水にて身を清め、襟を正して明神に参拝した後、浜の館に出仕した。
この附近を下馬尾と称するのは下馬野が転化して下馬尾となったのであろう。大ケヤキは樹齢約千年と推定されるが、柳本明神が大宮司友仲卿によリ創建せられたのは、後一條天皇の寬仁2年で、神社の創建と共に植えられたものであろう。「東の御手洗」である瀬貝の妙見の大ケヤキと共に昭和12年12月、天然記念物に指定せられた。
先生は浜町の西の玄関下馬尾から紹介を始められました。ここが柳本大明神の「西の御手洗」で、「東の御手洗」は新町の妙見です。ここら一帯が、柳本大明神の境内地であったというのですから、かなり広い境内地だったのですね。したがって、この地を古くは「宮の原」と呼んでいました。
先生は、「御船方面より来た城主や重臣達は先ず上司野(上司尾)の駅亭で衣服を改め」と書かれています。駅亭というのは人馬の継ぎ立てをして、駅使、宿舎、食料などの提供をしていた施設のことです。それが、上司尾にあったと言うことでしょうか?
「下馬」とは、社寺などで敬意を表すために馬を下りることを言い「下乗」とも言います。下馬尾で下馬するのでその付近のことを下馬尾と称したそうです。それは、言うまでもなく柳本大明神に対する敬意を表しています。下馬尾から南田に到る丘陵地を「馬原(まばる)」といいます。馬を下り、馬を放っておいたことからそう言われるようになりました。
「西の御手洗」と「東の御手洗」には、樹齢千年を越える大ケヤキがそびえ立っていましたしたが、「西の御手洗」の大ケヤキは昭和33年の下馬尾の火災のために切り倒され、「東の御手洗」の大ケヤキも平成15年に残念ながら倒木しました。
下馬尾にあった大ケヤキのことを「塩井手の大ケヤキ」とも言います。「塩井手」の「塩」は神に捧げる神聖な水(神水)と言う意味です。一方、仏様に供える水は閼伽(あか)といいます。その名の通り「塩井手の大ケヤキ」の下からはこんこんと清水が湧いていました。
2024年02月03日更新