当時の肥後は、天下の名君として有名であった細川八代目の重賢公で霊感公ともいった。積極的な殖産興業の方針によって、茶、楮、櫨、桑等を植えさせて、製茶、製紙、製蝋、養蚕等を奨励したのは、天明より二十五年前の宝暦年間の事である。又堀平太左ヱ門を抜擢して家老職となし、政治に経済に又教育に改革を加えたので、肥後藩は面目ともに一新した。世にこれを宝暦の改革と云い、産業藩として肥後の名は天下に鳴響いた。肥後の産物が京阪の地で好評を得て陸続と送られた。各種産業の繁栄は収入の増加となり民家の生活の余祐となり、藩主霊感公の善政を謳歌して殿様祭りや盛大な豊年祭が到るところで催された。浜町が誇る八朔祭もそれまでの笹踊り、或は地縮といった、農民舞踊が商人達の参加によって現在の八朔祭の様になったのも、明和の頃である。
上に名君霊感公あり、名家老堀平太左ヱ門の補佐によって、宝暦の改革を断行したやうに、浜町に於ても名惣庄屋公豊を補けて新進気鋭の商人備前屋清九郎をはじめ、萬屋弥平次、板屋清助、天満屋次兵衛、高屋徳次等の努力によって浜町があらゆる方向に飛躍的な発展を遂げ、今日の浜町の基礎を築いたのもこの時代である。
天明二年(1782)四月下旬、川尻を出帆した小一丸は六月上旬大阪に着いた、丹後縞の織物は特に好評であった。交易を終った小一丸は木綿類や塩や藍玉など付近の産物を満載して帰航の途についた。航路は平穏のみではなかった。丁度台風期である。七月二日、同十六日、八月二十三日と三度台風は荒狂った、吹きつのる暴風雨を冒して清九郎は小一領大明神に参篭して小一丸の安全を祈った。三度の大風に多数の船は難破したが小一丸は積荷共送恙無く八月末川尻に安着の旨通知が来たので、お礼の為小一領大明神に一夜参篭した。
番頭や船頭の報告、それは驚異の連続であった。今日迄矢部の小さな天地で商売をしてゐた清九郎は、眼前の幕が取除かれた様な気持がした。船だ、船でなければと思ったのが的中したことも嬉しかったが、洋々たる前途が開かれたのが何よりも嬉しかった。満九郎はこの成功を理解し援助してくれた今はなき公豊の墓前に報告した(間部公豊は安永五年五月二十三日六十一才で没した)。
2024年02月22日更新