本来ならば今回は、「浜町史蹟めぐり(6) 小一領神社(3)」となるべきなのですが、あいにく資料が残っていません。よって、飛ばして次を紹介します。

 

        

 栄佑盛は歴史が繰返す鉄則である。全盛を誇つた阿蘇家と惟豊公、惟将公を経て惟種公(上畑のおたっちょさん)は二十四才で死去され長男推光公は僅か三才で大宮司の職を継がれた。

 

 阿蘇家に昔日の面影なく秋風落莫の様子は現れていた。阿蘇家の衰運を見て取た薩摩の島津義久は好機来れりと天正十三年八月、一万五千の大軍を以て怒濤の如く肥後に侵入した。阿蘇家旗下の諸城相次で落城或は降り阿蘇家の神領は島津の占領するところとなつた。

 

 惟種公夫人は当主惟光・惟善の二兄弟を供い僅か数名の家臣に守られて目丸の山中に難を避けられた。中央にあって島津家の近隣侵略を見ていた豊臣秀吉は度々教書を以て島津義久を論したが一向に応じないので、天正十五年三月自ら三十万の陸海の兵を率いて島津征伐に出発した。流石の義久も秀吉に降参したので旧領のみ与えて肥後全土は部下の佐々成政に与え治めさせて京都へ凱旋した。

 

 この時、惟光公は僅か矢部に於て百町を与えられたのみであった。これは秀吉の阿蘇家に対する武断的政策で再び阿蘇家が兵力を擁して政治上の干渉をする過程を断ち武家と神とに分離する目的を以て行れたものであろう。これより大宮司は武力を失い神として存在するようになった。

 

 間もなく成政は、政治上の失敗により秀吉の怒に触れて切腹を命ぜられた。其の後天正十六年四月秀吉は肥後を二分して加藤清正と小西行長に与えたので行長は宇土城を築いて宇土、益城、八代を治めた。重臣結城弥平次是俊に三千石を与え愛籐寺城代として日向境の圧えとすると共に矢部を治めさせた。天文十八年フランシスコザビエルによってキリスト教が伝来して以来全国に普及されてこの教を信ずる者が多かつた。小西行長も熱心な信者で天正十二年に洗礼を受け名をドン・オーギススタンと称えた。

 

 旧主を懐かしむは民の常である。然も新来の領主はヤソと云い異国の神の信者である。白眼視するのは当然であろう。領民は自分達の祖先神を罵倒するキリスト教を嫌っ当時農民の指導的立場に居た僧侶や神主達も協力して異国伝来の教に反対した。こうなると神の愛を説いて新しい政治を目ざしていた行長の理想は根底から覆されざるを得ない、激怒した行長は断の処置を採った、自分の信仰に反対する根元である神社、仏閣を焼払った。阿蘇三ヶ社の一つである宇土の郡浦社や西の高野山と称された勅願書の釈迦院の大小三十六坊が焼かれたのもこの頃である。結城弥平次も熱心な信者で行長の命に依り愛藤寺(天台の古刹)や男成神社を焼き払った。小一領明神と文緑四年焼討されて宏壮な社殿や宝物や神号の由来である千壽丸公奉納の鎧も焼失した、御神体のみ事なきを得たが境内は荒廃して狐狸の住家となった。

 

 慶長五年関ヶ原の戦に敗れた小西行長は捕えられて斬られ、同年十二月小西の旧領であった宇土、益城、八代の三郡は清正に与えられた。肥後一国を領有した清正は意を民治に用い土木工事を起こして河川の改修、道路の新設等目覚しく活躍した。慶長十八年現在の旧会所附近に居住していた井手玄蕃允豊治を召して矢部郷惣庄屋役を命じた感激した豊治は第一代矢部郷惣庄屋として居宅を役所とし民治に努力した。

 

 豊治の念願は小一領明神の再興であった。又豊治は自給自足の状態であった矢部に商業と云う新しい経済機構を取入る為に交益の場所たる町を建設して矢部の政治経済文化の中心とするにあった。荒廃した社殿の付近(新町)平坦で、将来町の中心となるところであると着目した豊治は清正の許を得て現在の場所(中町)に元和六年三月起工し同七年八月十日に木の香も新しく社殿を竣工した。其の後安永八年現在の社殿に改築された。

 

2024年02月08日更新