浜町の先覚者達が交易によって京阪地方から運んだものは産物だけではなく、新しい学術、思想技術等も移入された。常に中央の新しい空気を呼吸する、この精神は永く伝えられた。
一例を挙ぐれば、当時の土木技術の精粋ともいうべき通橋橋も、矢部の山間に忽然と現れたものではなく、考案者布翁の学識は浜町が育てたものであり、浜町の文化が基礎となってその上に築かれたものである。若き日の布田翁を薫陶せられたのは浜町が生んだ学者渡辺質先生である。号を巌阿斉といった。安永三年四月二十七日(1774)に新町の松陰堂に呱々の声を上げられた。先生の先祖は、鬼の腕を切取って勇名を轟かした渡辺綱である。又天正の頃、阿蘇家没落後、幼君惟光・惟善を目丸の山中にかくまった阿蘇家の忠臣渡辺軍兵
衛吉次も質先生の先祖である。質先生は寛政三年医者を志して近藤三折の門に入り、同九年藩の再春館の医師となり、三百匹の金子を賜った程の秀才である。有馬源内先生や富田大渕先生や近藤英助先生の門に入て和漢の学を修められた。又近所であった関係上特に男成大和翁について、国学や和歌を学んでその奥義を究められた。大和翁は小一領社の祠官で文化五年(1808)七月一五日、八十三オで死去されたが、明和頃の浜町最盛期の人達は皆大和翁の教え子である。
質先生は、その外に藩の絵師、矢野良勝について絵を、又山東佐十郎について武技を学びいづれも達人であった。天保四年(1833)抜擢せられて御郡医並に教導師を命ぜられて、年々金子四百匹を賜るようになったので、郷内は勿論、郡内各地より入門する者多く、門弟も三百数十人を数えた。
浜町が文化的に発達した後に、質先生のあった事を忘れてはならない。嘉永元年(1848)十月四日、御岳村横野附近の病家を診察の帰途、紅葉した大矢川の峡谷(横野滝の下流)は一幅の名画であった。大いに歌心を動かされた先生は、横野と田所の中間にあるハッタイ滝の厳頭に立たれてこの絶景に恍惚となり、作歌中に過って滝壺に落下して悲惨な最後を遂げられた。肥後藩の学者として名高い木下業広先生とは、深く交際して居られたが、木下先生は、質先生の不慮の死を聞かれるや驚き悲しみその功を讃えて長文の碑文を作られた。
質先生の墓は、染野の火薬庫の上にある。先生の著書には矢部風土記(歴史)、経終物物一家言(医書)、厳阿澄稿二十巻、其の外多数の著書がある。
昭和十二年頃、質先生が差しておられた脇差が最後を遂げられた川底より発見された。先生の曽孫に当られる渡辺高悦先生より見せて戴いたが、永く水中にあったので錆朽ていたが、ところどころ拵えの金像眼が光っていた。確に相州物のように拝見した。質先生の最後を物語る遺品である。
布田保之助翁は、少年の頃より先生の薫陶を受けられたが、惣庄屋となられてからも師礼をとられ、施政上の顧問としておられた。最愛の一子平之允が十才の天保四年(1833)三月三十日に質先生の門に入門させておられるのみでなく、布田一門の教育を依頼しておられる。質先生の入門名録によれば、布田友次(太郎右ヱ門)翁の伯父、山本十之助(布田
市郎次)、布田平之允(翁の嗣子)、布田彦之助(太郎右ヱ門二男)等の名が記されてある。
翁は、質先生の不慮の死後その長男健氏を常に引立られた。先生は、無欲であったので家は荒果てていた。布田翁は通潤橋落成後台橋に使用した木材を健氏に贈られた。松堂はその木材で建てられたものである。この家は、布田保之助翁と渡辺質先生の美しい師弟愛を物語るものである。町としても、ぜひ保存して立札をして大勢の人に知らしめなければならない。記念建造物である。
2024年03月02日更新