清九郎の報告によって、丹後縞や絹織物の好評に気をよくした藩の産業導者は、熊本の萬町附近に製絲工場と織物工場を建てた。この織物工場に、教授方として招かれたのは、浜町の子女達であった。この工場が、後年の肥後製糸である。

 

 小一丸は、年に二回か三回京阪と肥後の間を往復した。 いづれも航海は、平穏無事で利益も莫大なものであった。後年肥後東部の富農として阿蘇郡坂梨村の虎屋(菅氏)、 高森の豊後屋(山村氏)、馬見原の吉野屋(今村氏)等と並んで浜町の備前屋は有名であった。細川公領内巡視の際は宿所となった(お成りの間として現存している)。それ程の富豪になった基礎は清九郎の頃に築かれたものである。

 

 この清九郎は、非常な敬神家であった。小一丸の平穏な海は、ひとえに神号を戴いた小一領大明神のお陰であると、天明七年(1787)三月、独力で小一領大明神の拝殿寄進の工事を起し四月十五日落成竣工した。二間に二間半で現在の拝殿がそれである(その後増築されて少々変化している) 又寛政元年(1789)、小一丸に乗って上京の際、大阪の石屋に影石の狛犬を注文した。そして、寛政二年(1790)再度上京した時、見事に出来上った狛犬を小一丸に積込んだ。川尻迄は船で、川尻から熊本迄は車で、さて熊本からが大変である。浜町路悪路の十二里、勿論その頃は車の通る道はなかった、記録によれば狛犬一体に人夫四人、台石四個に大が二人が一人で合計狛犬一基について人夫十人、狛犬一対で二十人と云う人数で、九月一日熊本を出発してヨイショヨイショと軍見坂を休み休み登り、八勢の悪路を越え、金内、原村を通り、九月八日に神殿の下陣(玉垣の内)に漸く据付けた。この間八日、人夫の草臥もさることながら延百六十人の人夫賃も大した額であったであろう。

 

 奉納されたのは寛政二年(1790)九月八日であるが、狛犬の台石に寛政元年五月とあるのは大阪で清九郎が注文した時である。現在は拝殿の前に据えてある、

 

 又、航海者の守護神である讃岐の金刀比羅大明神を勧進して瀬貝山の天狗松の下に祠を建てて信仰した。これが現在の金刀比羅社で今でも備前屋から管理して居られる。その社殿に大国丸と云う鋼板の船号を掲げてあるが、これは小一丸の次に新造された前屋の船の名である。

 

 天明という年号で見出すことは、老中田沼意次によってはじめられた全国的な賄賂政治と飢餓と暴動である。矢部もその例外ではなかった。天明七年(1787)には、草や松の皮迄食った。その年には、藩主の膝元である熊本ですら町や新町等の富豪の家に暴民達が乱入して打こわしを働いてる程である。浜町のその頃の米価を列記して見ると、

 

明和三年(1766)  米一俵(三斗入)  十三匁五分

   十二年後の

安永七年(1778)  米一俵(三斗入)  二十一匁

    九年後の

天明七年(1787)五月 米一俵(三斗入)  七十匁

 

と云うような驚くべき暴騰である。銀一匁で僅に六合しか求められなかった。食えない者もあったろう。然し浜町からは、餓死者はもとより暴民も出ていない。これは、当時の浜町商人達が一致して惣庄屋間部忠次公正(公豊の子)を助け救侐米を施したり、或は無償で金や米を貸したからである。乏しいながらも貯えの米を分ち合ってを飢えを凌いだ。

 

 熊本の富豪が利益の為に米を買占めて、食べない人達が暴民となって打こわしたのと比べて、何という人格の差であろうか。この時率先して酒造米を放出したりして一番活躍した人は清九郎であった。この敬神と慈善の家訓は代々伝えられた。

 

 小一領神社の神木の下附近にある石燈篭は、ほとんど備前屋代々の寄進になるものである。年末に困窮者に米や金を送るのは、毎年のしきたりであった。

 

 美談は、さらに美族を生む。九十年後の明治七年、小一領神社小路から発した火災は、浜町肇まって以来の大火となり、全町の三分の二を焼失せしめた。その時,人々は前屋を焼くな、備前屋を教えと駈付けて猛火の中で奮闘した。そして前屋のみが、焼土の中に残った。備前屋を焼くなと叫んで消火に努力した人の絶叫は、天明の飢饉に、苦しい年末に、助けられた親の、祖父の、魂の叫びであった。

 

 この浜町発展の恩人備前屋清九郎は、寛政九年(1797)十月七日、五十二歳の壮齢で去った。私は浜町に清九郎の様な人を持つた事を誇りとするものである。

 

 金を貯える事のみに狂騰して、生きた金の使い方を知らない人達に、清九郎の墓の苔を煎じて飲ませたい。その墓は、中染野(種馬所の東の方)の一番下にある。肝胆照した名惣庄屋間部公置の墓の程遠からぬ松の下にある質素な墓である。

 

 

 素晴らしい惣庄屋間部公豊、そして浜町の豪商達、その中でもリーダーシップを発揮する備前屋清九郎、そうそうたるメンバーで、浜町は危機を乗り切りました。しかも、豪商達は困窮者を救い、町の人々は代が代わっても火事場に駆けつけ備前屋を火事から守ったと言います。恩返し、恩送りが行われたこの浜町、井上先生でなくても誇りに思います。

 

 

2024年02月27日更新