浜町産の絹織物「丹後縞」は藩の奨励という時代の波に乗って盛んに産出された。今迄の工業生産は農家の家内工業か、或は親方と弟子と小さな仕事場でする同業組合的な手工業にすぎなかつた。それ等の製品を買集めていた何屋と呼ばれる小さな資本家は、大きな工場を作り、労働者を集めて仕事をさせる方が、はるかに能率があがり、生産があがることを発見した、手工業ではあったが、分業も行われ、熟練工も早く養成される。

 

 このような工場制手工業(マニファクチュア)こそは、近代産業のめばえであった。日本でこのような工場が最も早くから行はれたのは、京都の西陣、関東の桐生、足利等の織物業の盛な地方で、宝暦(1751年~1764年)頃から行はれた。それから数年後の浜町にも「丹後縞」の機織工場が建てられ、それが浜町商人の共同出資という今日の株式的な組織で経営されたことは、浜町人の商業的頭脳が優秀である一証拠であろう。更に桐生、足利の工場が大正末期の女工哀史的な資本主義的搾取の網にしばられた、付近の貧農の子女が労働者であったのに比べて、浜町の工場の労働者達は惣庄屋公豊に選ばれて島已兮から教えられた株主達の子女を中心とした健康、明朗な女性達であった。浜町商人の進歩的である今一つの証拠は寛延二年秋(1749)当時十軒に近い造酒屋は能率の悪い唐臼(足で踏む)で精白していたが共同出資で瀬貝(現在の古川町の赤禿道)に二軒の水車を建てた。記録に、水車上下二軒、車二丁、臼六、上下ニテ十二アリ。昼夜ニテ十数石ノ酒米ヲ精ス。大工浜町茂平次、矢部ニ始メテノ水車ナレバ村々ヨリノ見物人群ヲナス・・・と記されてある。当時の浜町は原料を農村に求め、製品を熊本に販売する近代工業都市の形体を備えていた。生産は高められ製品の規格も統一されたが固い殻の中にある封建性は市場すら自由に求める事は出来なかった。生産品は熊本の織物問屋に安く買取られ、利益はそれらの中間商人に奪われいた。これではいけない。この隘路を何とか打開しなければと浜町の商人達は努力した。その運動の先頭に立った人は、新進気鋭の商人備前屋清九郎である。

 

 明和四年(1767)には商人ながら苗字帯刀の士分格になったいわゆる士魂商才の人であつた。浜町の商業的発展は、この人に負うところが極めて多い。清九郎の非凡の才が第一に発輝されたのは、其の頃浜町の中心といえば中町で新町は場末であった。その場末の新町に明和七年(1770)三月二〇日に前口九間、奥行八間の堂々たる二階付の居蔵(土蔵造)を建て、人々を驚した。これが現在の備前屋(通潤酒造)である。居蔵造りにした清九郎の達見は誤らず其の後数度の火災の際にもこの家は残っている。更に同年十二月には、去る明和四年六月六日の大洪水で流失した。共同で建てた瀬貝の水車を備前屋清九郎は独力で再建している。

 

 生産者から直接消費者へ中間商人に利益を奪れていた浜町商人の切実な叫びであった、矢部の産物を直接大消費地である京阪地方へ出荷するにはどうしても船が必要である。船だと決心した清九郎は惣庄屋を説いた。その熱意に動かされた公豊は郡代を説いた。郡代から藩の要職へ「浜町の商人へ大船は不用である」と不許可の方針であった藩も、終には清九郎の熱意に動かされて許可した。欣喜雀躍清九郎は早速住吉丸と云う十七反帆千俵積の大船を買取り日頃信仰する小一領大明神の神号を戴いて小一丸と改めた。当時肥後藩の船があった川尻に備前屋支店を設けた。天明二年(1782)四月二十六日丹後縞をはじめ矢部の産物を満載した小一丸は満帆に春風をはらんで川尻を出帆した。

 

 

 江戸時代のこの山の中で、工場制手工業(マニファクチュア)が行われていたと言います。すごいですね。当時の状況について奈良本辰也氏は「明和年間(1764~72)には益城郡矢部地方の製糸業は、世の注目を浴びるほどになっていた」(「日本の歴史」町民の実力・奈良本辰也著)と書き記しています。

2024年02月21日更新