徳川三百年の泰平は、百姓商人の上に建てられた搾取文化であった。士農工商と厳重な階級制度を正当づける為に、儒教を官学として採用し、主人に対する忠義を道徳の根本として、思想統制のよりどころどした。

 

 大名の子は、馬鹿でも殿様であり、百姓商人の子は優秀でも百姓であり商人であった。住居の自由もなく職業の自由もなかった。生産物のほとんどを、年貢として取上げられる農民は、士の次に位置しても生活は一番みじめであった。徳川家康でさえ代官に「百姓どもをば死ぬ様、生きぬ様にと合点致して収納申付けよ」と命令している。年貢を産出する道具として最低の生活をさせておく方針が示されてある。

 

 農民の生活には、色々な干渉が加えられた。雨が降っても傘や高下駄を用いる事は禁ぜられた、笠蓑に草履であった。「酒や煙草をのむな」「米を食うな雑穀を食べ」等から「髪はワラにて結べ、元結を用いてはならぬ」等小さな事まで示されていた。貧窮のどん底にある農村に購買力等あるはずがない、矢部郷中七十数ヶ村の村々を持ちながら浜町の発展は微たるのであった。

 

 三代将軍家光の寛永十六年(1639)宮原町を浜町と改められたが四十四年後の天和三年頃の浜町は、町内東西百八十間、南北二丁、竈数三十一軒の小さな町であった。その内酒屋十一軒、麹屋五軒・油屋一軒(酒屋と云ってもこの頃の酒屋は委託加工の酒を主とし質屋もやれば古着屋もやり荒物呉服等々百貨店式の店であった)現在の浜町橋口から小一領神社前付近迄が浜町の全部であった。

 

 町で売る商品も惣庄屋の許可がなければ売る事が出来なかった。贅沢品は一切許可せず行商等も許可される商人は僅かであった。又商人が村に居住する事を厳禁した。物を買う事は最低生活の基礎である自給自足のくづれる事であるからであろう。いくら圧えられても農民は強く生きて行った。僅かな暇を見ては畑を開墾して生産を高めて行った。大名の城下町に人口が集り消費が盛になるにつれ附近の農村と厳重な禁令にも拘らず色々な品物が入る様になり、これを買う為に農民は年貢以外に金になる品物を作り出す必要に迫られた。

 

 ここに震民の伸びる道が開かれた特殊な作物や加工作物等である。年貢と違って努力した農民は汗が変じて金を握ることが出来た。明かるい希望をもつた農民達は更に肥料や農具にも改良を加えた。

 

 元禄頃、備中鍬が盛に使用されて全国的に開墾が行はれ、貞享頃千石通しや、千歯(脱穀機等の農具も現れ農民はこれ等の品物を買う為にも金の必要を痛切に感じた。奮起した農民達は気候土質に適した作物を栽培した。諸国の特産物が市場に現れはじめたのもこの頃である。紀州のみかん、薩摩の煙草と阿波の藍、肥後の木蝋等で全国的に織物業や林業や鉱山業が盛になって来た。藩の為政者が何でこの状況を見逃そう。藩の産業として保護し或いは援助し、又技術者を十分に取立てたりしてこの新しい産業を奨励した。農村の収入は購買力の増加であり町の繁栄の基礎である。今迄眠っていた浜町はこの農村復興の波に乗って目覚ましく発展成長して行った。

 

 元禄十三年の頃になると横町が出来、更に町家を増す事を惣庄屋を通じて藩に願出たところ同十四年に許可あり何十五年に家を建てはじめたところ忽ち上口井手塘まで家が立列んだ。これが新町である。肥後國誌には、「当町西の溝口より、東の溝口まで六町二間、竈数七十九ヶ所あり」と記してある、宝暦年間の浜町ももうこれ程成長していた。

2024年02月14日更新