(前回より続く)

阿蘇氏が矢部へ(6)

 この文書の中に「如元」とあります。素直に読めば、「元の如く」と読めるのですが、阿蘇品先生は「本来矢部が阿蘇氏の所領なら取り返したことになるので所領安堵という形をとったはずですし、建武の恩賞申請においても、矢部も加えて要望せねばならないところです。或いは他人に与えられたとあれば、自分の方に権利があると阿蘇氏は訴訟すべき土地だと言うことになります。」として、阿蘇氏は、まだ矢部に移住していなかったとみられると述べていらっしゃいます。とすると、この「如元」とは、どういう意味なのでしょうか? 

 

阿蘇氏が矢部へ(7)

 さらに、この恩賞の対象となったのは、恵良惟澄軍忠状にある

「惟澄纔率五十余人、延元二年二月廿二日馳上甲佐嶽、相催一族以下、攻随砥用・小北・甲佐・堅志田(中略)同六月、押寄矢部山、追落越前守頼顕代平四郎兵衛、上下数百人討殺畢」

 これの読み下し文についても自信はありませんが、

「惟澄わすか五十人余り、延元二年二月二十二日甲佐岳に馳せ上り、一族あいもよほ以下、砥用・小北・甲佐・堅志田攻め随い(中略)同月六月、矢部山へ押し寄せ、越前守頼顕代平四郎兵衛、上下数百人をことごとく討ち殺した」

との意味ではないかと思います。

 

 この後も恵良惟澄は、南郷城、津守城、守富庄など阿蘇氏ゆかりの土地を攻撃し失地回復しているかのようです。「新甲佐町史」の編纂にかかわられた熊大の稲葉継陽教授はそのこと「惟澄は甲佐岳を拠点に甲佐社領の当知行を維持し、次いで益城郡・阿蘇郡一帯の所領回復のために行動していたのである。」と解釈されています。この辺は、阿蘇品先生の解釈とは違うようです。

 

 そして、阿蘇品先生が根拠として挙げられているのが「正慶乱離志」またの名を「博多日記」とも称します。

 

 鎌倉幕府打倒のために菊池武時が、盟友阿蘇惟直と鎮西探題攻撃を行おうとしたときに幕府側に情報が漏れ、援軍がないまま武時以下大多数が戦死しました。嫡男武重は惟直に護られ阿蘇南郷の大宮司館に向かったとされています。

 

 「正慶乱離志」によれば、元弘3年(1333)3月16日、北条高政を指揮官とする探題軍が肥後へ下向し、25日、大宮司攻撃が開始されました。阿蘇氏の抵抗は頑強で、探題方の火攻めを含む攻撃にも耐え、さらには2羽の鷹(阿蘇家の家紋は違え鷹の羽、菊池家の家紋は揃い鷹の羽)が館の上で舞うということもあり、いったん攻撃が中止されました。再度の攻撃が開始されると、阿蘇方は館や村の家々を自ら焼き払い、菊池武重を伴い日向国境を越え、鞍岡山に立て籠もりました。この時点では、大宮司館は南郷にあったとされています。

 

 さらに、阿蘇品先生が承元元年には阿蘇氏はまだ矢部には来ていなかったとする根拠として挙げられているのが、正治二年(1200)の宇治惟泰譲状写しです。参考のためにその資料を写真で添付します。この中には大野、柏は記載してあるが矢部の地名の記載が無いと言うことです。


(次回へ続く)

2021年09月13日更新