(前回から続く)


 一方矢部の地は、平安時代には国衙領、即ち肥後国の国司の役所の支配下にあったようです。十一世紀から十二世紀初めとみられる高野文書の中に木原広美が矢部の御所を襲い甘葛汁を奪った記述があります。襲われた矢部山専当の久包は国衙から矢部山の管理を任された責任者で国の支配下にある組織の長でした。

 

 南北朝初期に前述しましたように越前守頼顕の代官が矢部にいたと言います。この越前守頼顕とはだれなのか?阿蘇品先生は、おそらく源頼朝の弟・三河守範頼の孫ではないかと推測されています。即ち、阿蘇家とは関係ない人物です。従って、鎌倉時代には、矢部を含め、益城郡に阿蘇大宮司家の所領はなかったものと考えられます。

 

(次回へ続く)

 

2021年09月09日更新