次は、仲町に移動します。この地区は小字名は下町と共に「古町」と言います。八朔祭のときはこの町の若者のことを「本若」と呼び、「新町」の若者のことを「新若」と呼んでいました。この仲町のAコープの裏あたりに矢部手永の「会所(役場)」が宝暦6年(1756)に下市に移転するまでありました。よって、今でもそのあたりを旧会所と呼んでいます。
昭和50年代にニューグランドと呼ばれる宅地造成が行われるに際し、昔から言い伝えられていた「水牢」の調査が行われました。「水牢」というのは、会所の附属施設で、記録によれば「堀をほり水をたたえて、中央に柱をたて、年貢未納未進の百姓を束縛して水にひたし、柱につなぎ置いて懲らしむるなり」としています。井上清一先生から聴いた話では、さらに天井は低く足を曲げた状態でしかも天井にはトゲのあるものが置かれ頭が触れたら刺さるような仕掛けになっていたそうです。そのために、足を伸ばすことが出来なく中腰の状態だそうです。
当時の様子を描いた「仁助咄」にはこう書かれています。「不作で年貢が不足する。縛り上げて拷問に掛けられる。納めるようにも方法がない。苦しさを堪え忍ぶ。拷問は日一日とひどくなる。とても耐えられぬ。二三日中に才覚して納めると嘘をつく。仮釈放される。途中で投身自殺するもの、首をくくる者、宿元で切腹する者が多かった。」と言います。この水牢跡も宅地造成工事によって消滅しました。
2017年04月26日更新