弱肉強食の戦国時代に、平和を求めんとするならば、強大な軍備が必要である。宗蓮は、盛に近隣を攻略して、当時日の出の勢にあつた、薩摩の島津氏を仮想敵国とし、利害を同じくし、唇歯輔車の関係にある豊後の大友氏と、攻守同盟の約束を結んで、後方の憂を断つて、島津に対して戦備を整へた。宗運のこの判断は実に正確であった。宗運が最も心血を注いだのは、阿蘇家の拠点ともいうべき矢部郷内の軍備と布陣とであった。

 

 矢部郷内の山岳、峡谷、断崖・河川等の天嶮を利用して要所、要所に城を築き、矢部全部を難攻不落の要塞となした。郷内の城のみならず、全阿蘇家の城が全部、西を攻撃正面としているのは、島津氏の肥後浸攻に備えたからである。

 

 大宮司家の本城である岩尾城は、その地形が亀の様であったので別名を亀甲城と称した。又本城に次いで重要な愛藤寺城は、名の示す如く元、天台宗の寺院の後を利用したもので千滝川、緑川の千丈の絶壁をめぐらした城で、あたかも鶴が翼をひろげた形に似ているので舞鶴城ともいつた。阿蘇家の千秋万歳を祝った。龜甲城、舞鶴城を中核として矢部郷内に配置された城は次の通りである。

 

小野城  男城伊勢守 下矢部村勢井 万坂峠の要害の押え

市原城  城主不詳 浜町市原 通稱城山猿渡瀬峰口の押え

猿渡城  渡辺式部少輔 下矢部村猿渡 猿渡口の押え

中島城  中島氏 (二子石) 水之尾長谷口の押え

寺尾城  寺尾志摩守 浜町杉 岩尾城の右側の備え

本城(岩尾城又亀甲城) 城代黑仁田豐後守

愛藤寺城 犬飼備後守 (別名舞鶴城) 本城の左側の備え

囲城   渡辺氏 白糸村菅 愛藤寺城の左側の備え並に緑川筋の押え

笹原城  笹原丹波守 御岳村笹原 本城の右後備え

勝山城  甲斐將監信光 御岳村橫野 本城の後備え

飯蓋城  飯蓋備中守光金 朝日村井無田 本城の後備え 日向口の押え

 

 鉄壁の布陣をした宗運は阿蘇軍の編成、装備等の軍政改革に努力する一方、諸城主に命じて猛訓練を行い、近代的な軍隊の育成にも努力した。 戦力の涵養は民力の涵養である。宗遣は、惟豊公を補佐して大いに民治の実を挙げたので阿蘇家は旭日昇天の勢であった。

 

2024年04月01日更新