名軍師、甲愛宗運を得た惟豊公は、本家横領を企てた甲佐大宮司、惟前、惟賢父子の野望を粉砕して、お家騒動を一挙に解決した後、大宮司として祖神、阿蘇大明神の祭礼を盛にすると共に領主として、産業振興に大いに力をそいだ。

 

 開墾、植林を盛にすると共に、一方では軍師甲斐宗運を用いて、着々軍備を充実して阿蘇大宮司領の不敗の態勢を固めたのであった。力が、すべてを解決した。戦国時代は、阿蘇神領という特権的地位も、他の豪族と同様に自己保全の為には、当然武力が必要であった。こうして、神職から豪族へと性格を変化させた阿蘇家は、軍備第一主義となり、従来壘として一朝事ある場合にのみ使用した岩尾城や愛藤寺城等を、本格的な永久的な築城や、改築に乗出したのもこの頃からである。

 

 大宮司旗下の諸城主も、封建的地位と武力とを保全する為には、神領という何物にも勝る防壁を利用する為に、大宮司に臣下の礼をとっているものが多かった。こうした ころに、他から掻乱されたり、お家騒動の起る原因が存在する。どうしても大宮司を中心とした権力を築上げなければならない事を痛感した甲斐宗運は、先ず諜報網を充実して諸城主の動向を探索した。

 

 第一番に諜報網に上げらたのは御船城主、木倉安房守房行の薩州島津家への内応である。房行は、若冠二十余才にして神領第一の要害で薩摩の押へである御船城主に抜擢れさた阿蘇家無双の豪勇の將であつた。時をうつさず、惟豊公の嫡男千丸を大将とし宗進を軍師として、大永六年十一月十日岩尾城を進発した討伐軍は、翌十二日には一戦に御船軍を打破り房行の首を挙げた。

 

 実力を示した大宮司の前に、諸城主達は心から服して、宗蓮が計画した権力の集中は出来上つた。房行討伐の功により宗運は御船城主に抜擢され、薩州への押えとして第一線の警備についたのであった。

 菊池一族;も詫摩氏も振わず、川尻氏も宇土氏も衰え、一人阿蘇氏のみ肥後の中央にあつて岩尾城を根據として四圍に武威を輝し、薩州の島津氏や、豊後の大友氏と対抗するようになった。阿蘇神社の神領をはじめ、託摩の健軍社、宇土の郡浦社、益城の甲佐社のいわゆる阿蘇四ヶ社領をはじめ、肥後の中央部の外薩摩の出水の莊、築後の隠岐、豊後の井田、大野以下六、豐前の今住、日向の鞍岡、高千穗等凡之三十五万石の領土を有し阿蘇家全盛時代を現出し、その属城も三十を数へた、当時の阿蘇家属城の主なるものは次の通りである。

 

建軍城主   光永攝津守入道淨英

小国下城主  下城右近大輔惟隆

小国石櫃城主 北里参河守政義

內牧城主   辺春丹後守盛道

北坂梨城主  右衛権右入道紹元

山平城主 村山丹波守家人

市下岳城主  市下大和守

二辺塚城主  藏原志摩守

高森城主   高森伊豫守惟直

下陣城主   光永中務惟久門第惟澄

御船城主   甲斐民部大輔親直入道宗運

早川城主   早川越前守吉秀

堅志田城主  北小左衛門惟安

岩尾城主   黑仁田豊後守

愛藤寺城主  犬飼備後守

勝山城主   甲斐将監信光

豊內城主   伊津野山城守正俊

傍島馬入城主 砥用丹後守

北田代城主  田代乘珍

南田代城主  田代紀伊守

木山城主   木山備後守惟久

曲野於主   釣野民部少輔

豐田城主   村山丹熒守

矢崎城主   中村伯書守惟冬

2024年03月30日更新