白糸道路の 坂道の右側と御廟がある。御廟いうのは、「みたまや」 とも言い貴人のお墓のことである。ここにある貴人とは、阿蘇中興の祖、従二位阿蘇惟豊公である。歴代の大宮司の中でも、惟豊公ほど波瀾万丈の生涯を送った人は少い。

 

 惟豊公は、明応二年(1493)大宮司惟憲の第二子と生れた。其の頃の肥後は、嵐の如く乱れ、東よりは豊後の大友氏の勢力が進入し、北からは龍造寺氏の勢力、南からは薩摩の島津氏が勢力を伸ばしつつあった。

 

 国内にあつても、人吉の相良氏、八代の名和氏、宇土の宇土氏、川尻の川尻氏、玉名の小袋氏や鹿子木氏等の群雄が割拠していた。阿蘇家も僅かに阿蘇、健軍、甲佐、郡浦の四箇社領の外に阿蘇一帶と矢部附近を傾有しているのみであったが、惟家の時代から次第に勢力を増して惟憲の代には、肥後の中央に阿蘇氏ありと近隣に知られるようになった。かつては、征西将軍を奉じて鎮西に武威をとどろかした菊池氏も、戦国時代に入ると昔の面影はなく、衰微の一路を辿るのみであった。菊池二十二代の能運の死後、僅か十四才の政隆は永正元年三月(1504) 菊池二十三代となり肥後守に任ぜられたが、何分若年の為、家臣が心腹せず、家中が纏らず、永正二年十二月三日、菊池一族は、遂に主人である政隆を廃嫡し、重臣八十四名連判にて、その頃次第に勢力増しつつあった阿蘇家と結ぶ爲に浜の館に誓紙連判 状を送って阿蘇惟憲の長子惟長を迎え、菊池家の養子としたいと願ったので、惟長は弟惟豊に大宮司の職を譲り、自身は隈府に入り菊池家を嗣いで菊池武経と改め肥後守と称した。

 

 菊池二十四代となった武経は菊池の一族の城、赤星、木野、隈部等が本家をしのぐ程強大で仲々いう事をきかず、それに大宮司として治めていた領土の半分にも足らぬ有様なので焼糞となり暴逆な行いが多く、家臣の諫言も一向聞き入れず国政も順顧みないので、菊池家の老臣はじめ国中一同憤慨して、隈府城内に険悪な空氣が張漂って来た。

 

 身辺の危険を感じた武経は、永正八年(1511)矢部に逃帰った。旧名阿蘇惟長に復して萬休齊と号した(養子先は追出され、家は弟が嗣いでいるし萬事休すのシャレであろう) 葛休斉は、しばらくはおとなしくしていたが、やがて弟・惟豊を除けて大宮司職を奪おうと喋り密かに兵を集めていたが、謀が漏れ惟豊は兵を差し向け俄に攻めたので萬休斉惟長は命からがら薩摩に逃げたが、間もなく島津氏の後援により薩摩の満家院の荘、伊集院の荘(この二荘は、阿蘇惟時の勤王の恩賞として南朝より阿蘇家に賜ったもの)の数千の兵を率い、又父・萬休斉に勝って勇敢といはれた子・惟前と共に永正十年(1513)三月十一日突如矢部浜の館を襲撃した。大宮司惟豊は僅かの部下を指揮して必死に防戦したが遂に破られて、四五名の近臣と共に危機を脱して、日向の鞍岡に隠れた。

 

2024年03月23日更新