本来ならば、ここは(16)でなければならないですが、なぜか番号が飛んでいます。以下、井上先生の記事です。

 

 熊本の人が水道町の名を聞くと「熊本の水道町と同じ町名ですね。」というが、浜町の水道町は現に水道が通って十数町歩の水田を潤しているだけでなく、その水道は、現在は形が変っているが、元禄元年頃(1688)に寛政された珍らしい水道であることを知る人はきわめて少い。熊本の水道町よりも浜町の水道町が本家である。

 

 三十才以上の人たちはまだ記憶していられると思うが、渡辺病院の板べい附近に、高さ約二間位の塘が下市の方へ続いていたことを御存知と思う。町の人たちは、横塘と称した。この横塘は、その後取払われてなくなり、現在は山水桜のところと、公民館の横に端だけを残しているが、これがその水道である。

 

 この水道は第五代目の矢部惣庄屋矢部勘右衛門重元が完成した水道である。勘右衛門重元は、布田保之助と共に土木事業の天才で、浜町がこの人から受けている恩はきわめて大きい。 勘右衛門は、熊本小沢町に生れ、若年の頃より矢部に来て、菅、目丸より材木をきり出す仕事をしていたが、傑出した人物であったので、二十六才の時に士分に抜擢されて杣番役を仰せつけられ、後、更に昇進して、山支配役に任ぜられたが、抜群の人であったので、三十七才の時に第五代の矢部惣庄屋を仰せつけられた。

 

 そこで、本姓古閑を改めて矢部と名乗り矢部右衛門重元と称した。名惣庄屋で、殖産、民治と幾多の事業を残している。天和二年(1682)に正福寺(浜町) 吉祥寺(名連川村下名連石) 西安寺(朝日村郷野原)の三ヶ寺を建立した。又御岳山の頂上にある観音堂及び浜町金比羅山の地蔵堂の地藏菩薩寺は勘右衛門の建立したものと伝えられる。又貞享四年(1687)の春、細川与一郎公細川五代綱和公の長子の誕生をことほぎ、熊本主還の矢部郷内三里の間に道の左右に松の並木を植えた。現在は、水の田尾、長谷の旧道に一、二本残っているだけであるが、三十年程前頃は幕の平附近の旧道に見事な松並木があったそうである。戦時中に松根油の原料として堀取られた古株はこの恋並木の根である。

 

 勘右衛門は、惣産屋を勤むること十四年で、元禄七年、嫡子衛門重政に庄屋役を譲った。重元は退役の後、古閑長左衛門と改めて、浜町の瀬貝に隠居したが、元禄八年、再び召出されて上監城御山奉行の要職についたが、その後、御国中御山惣目付役として肥後藩の林政に貢献した人である。勘右衛門は、又土木事業の大家であった。惣庄屋として在職中郷内各所に水利を計り畑を田となした。中でも、工事の大きなものは入佐の今古閑の山を堀切って下名連石川の水を引いて、恵良、鶴の舞附近の旧川床や畑を水田とし、 今古閑の旧川床も立派な水田となり、合計十五町の新田を得た。これは貞享元年頃(1684)である(次回へ続く)。


2024年03月13日更新