平成27年5月2日(土)五月晴れのなか,山都町郷土史伝承会主催による標記野外研修が開催されました。
 当日は,地元入佐地区からの参加も含め30名の参加者がありました。地元の人々の案内により,まず最初に訪れたのは,字ゴキデの中央にある「火伏地蔵堂」,「阿弥陀堂」及び「板碑」です。
 阿弥陀堂には,阿弥陀如来の両脇に脇侍が2体あります。いずれも,腐朽がひどく判別しがたいのですが,阿弥陀如来の脇侍は原則,左脇侍が観音菩薩、右脇侍が勢至菩薩と言われています。
倉岡良友先生の「入佐の歴史と信仰風土記」(以下「入佐風土記」と略します。)では,この地蔵堂は,もと入佐字西ノ脇3487番地に建っていましたが,昭和56年農道入佐・杉線改修のため現在地に移されたものだそうです。
 また同書には,この阿弥陀堂は,寛文9年(1669)の「国郡一統志」にある西福寺(阿弥陀)と思われると記されています。さらに板碑については,次のように記されています。
 碑面に「春月院殿釈行西日光居士,俗名田上嘉門之助」,「天文元年壬辰五月七日」,裏面には「天文元年壬辰,三百六十三年ニ至而明治二十七年甲午十一月建設」その下部には「上田用七,上田順七,上田梅太郎,上田貞八,田上茂平次,上田保,上田源三郎,上田孫十,上田九平,上田文平,木村八記」と並記されているとのことです。
 入佐風土記には,この田上嘉門之助について,次のような伝説が記されています。
 田上嘉門之助は,阿蘇家の有力な家臣の1人で弓の名人でした。あるとき嘉門之助は,遠く離れた小高い丘で赤い着物を着て遊んでいた我が子を赤鶏と見間違えて射殺してしまいました。その子供を供養するためにこの阿弥陀堂を建立したそうです。それから一族では,赤い着物を着ることや赤鶏を飼うことを固く禁じたそうです。
 この話は,地元の古老高森勅宣さんも当日の野外研修で,ぼくらに語って頂きました。
2021年09月20日更新