「男成」の地名は、男成神社にちなみ、同社はもと祇園宮と称していましたが、貞応元年(1222)岩尾城主阿蘇惟次が長子惟義の元服式をあげてからは男成神社とあらためたと云います。

 

 ぼく個人的には、男成神社の御神体は見岳山(標高632m)だと思っています。古くは神聖な山、滝、岩、森、巨木などに「カミ」(=信仰対象、神)が宿るとして敬まったそうです。現在の社殿を伴う「神社」は、神が祀られた祭殿が常設化したものだと思います。

 

 「見岳山」は、もとは「見立山」と称されていたそうです。それが明治になり、陸軍参謀本部が地図作りを行う際に、「見立山」を「御岳山」と誤記してしまったそうです(井上清一先生談・現在は見岳山)。矢部地区の縄文遺跡は、この見岳山の見える地点(標高500~700mの台地)に集落を形成していたと言われています。

 

 そんな見岳山の麓に古代人達は早くから住みました。男成神社の大鳥居を過ぎて神社の方へ坂を登ると左手に茶畑が拡がっています。この付近が「男成台地縄文遺跡」で縄文時代後期から晩期の遺跡で、黒川式土器や住居跡が発見されています。

 

 ぼくは、地質のことはまったく分かりませんが、井上先生は、見岳山の地質は三紀層だとおっしゃっていました。これは、海の底から盛り上がった地質で水を透しにくいそうです。その上に、スポンジのように火山灰土が堆積しているので、非常に水が豊かだそうです。まるで、貯水池みたいですね。

 

 男成の「稲生原」は、健磐龍命が山野を拓き、田畑を耕して農耕を広められたときに、最初に稲が稔ったので、ここを「稲生原」と呼ぶようになったと伝えられています。ここには、本田さん、野田さん、飯開さん、飯星さん等々米や田に縁のある名前が多いですね。

 

 これと似たところが南田川流域にあります。南田川の上流から下流に沿って、芦屋田、長田、南田ですね。そして、ここに住んでいる居る人の名前も芦屋田の本田さん、長田の田中さんそしして南田の下田さんと、それぞれ上流・中流・下流に沿って名前が付けられています。しかも、この流域は弥生遺跡です。

 

 また、「稲生原」以外に男成には、次のような伝説もあります。健磐龍命が見岳山(見立山)を望み、深山を踏み分けやっと山の麓にたどり着かれたときは、日は落ちて,たそがれの頃でした。それでこの地を「日暮崎」と呼ぶようになりました。真剰寺の前のあの直線道路から望む秋の夕日は今日でも美しいですね。

 

 地名と云えば、この日暮崎の直線道路(国道218号線)を跨いで「宝財出(ほうじゃれ)」と云う字名があります。なかなか縁起の良い地名です。

 

 夕日と云えば、江戸時代の元禄の頃、井沢幡龍と云う学者が「肥後之記」と云う本の中で、矢部のことをこう紹介しています。

 

「矢部は、中島、大矢、万坂を三方の囲いとて、東は菅の猪道、目丸の猿坂、渓川を覆いて樅、栂、桂、塩地などの能木、梢は我里になびき、夕日、影は日向に差す。旅客の運上銀は花域に納まり、角、平物、丸太の杣取りは、数十年来緑川を塞げども、この山はびくとせず。」

 

 井上清一先生から耳で聞いたものを文字に起こしているので誤変換もあるかも知れませんが、この「夕日、影は日向に差す」と云われた矢部はまさしく宝がたくさん埋まった土地です。

 

 この「宝財出」に隣接するかのように「百万石」と云う字名もあります。こちらも法務局の登記簿に登録されている字名です。百万石には,最近御岳保育園が新築されましたので,車で通られるときに「あそこが百万石か!」といい目印になると思います。

 

 ここは、興国4年(1343)豊後の大友義通が兵3000余で矢部の諸城を攻めた際に,笹原城・勝山城(横野)はそれぞれ兵500余をもって防戦し,地雷火を製造して陣所を爆破しようと待ち受け,そこへ来た1000名の大友軍を爆破して火中の灰としたといいます。のちに百万石に小碑を建てて千人灰塔と称したそうです(角川日本地名大辞典)。

 

 地元では,千人灰塔のことを「せんにんびゃーとう」と呼んでいます。そんな戦いがあった場所が,何で百万石なのかよくわかりませんが,地元のある人は大友が肥後を羨ましがって百万石と呼んだのではないかとおっしゃっています。確かに延喜式が策定された10世紀頃の等級分類では肥後は九州でただ1つの大国でした。それでも,この地だけをもって百万石と呼ぶのは何ででしょうね。

 

 以前、Facebookで蘇陽病院の水本先生から「肥後と豊後が戦ったことから、両者の石高を足して百万石と名付けたと聞きましたよ!」と教えてもらったことがあります。

そこで、調べてみました。

旧 国 慶長3年(1598慶長9年~慶長15

豊後国  418,313.00   →378,592.400

肥後国  341,220.00   → 572,989.000

合 計  759,533石   → 946,581.4

 戦いがあった興国4年(1343)当時では、百万石に足りませんが、江戸時代に入れば百万石に近くなりますね。とすれば、江戸時代以降に命名された地名かも知れませんね。

2021年09月17日更新