矢部地区には、各村々の気質を表した「矢部の村々気質」と言う言い伝えがあります。この作者は、幕末から明治にかけて生きた富田弥熊という方です。弥熊さんの正式な名前は、「富田弥熊正德」と言います。浜町の豪商板屋の二男で、身分は「独礼」だったと言います。「独礼」とは、儀式の日に藩主に単独で目通りすることができる身分だそうで、布田保之助さんより身分は上でした。

 「矢部の村々気質」は、この弥熊さんが書いて明治30年に浜町商人下田権蔵及び間部伍作が加筆したと伝えられています。この「矢部の村々気質」のなかで、「入佐髭」と称されたのが入佐の人々です。

 阿蘇氏が南郷より浜の館に移住し、阿蘇惟景公が元寇の乱に出陣し入佐神社が創建されました。それ以後入佐では、「喧嘩祭」が催され「打ち上がり」という成人式が行われ、「入佐根性」という伝統が「髭」に象徴され伝えられています。

 言い伝えによりますと、入佐には阿蘇の一族たる高森氏十六家があり、小西行長の家臣で愛藤寺城主だった結城弥平次の攻撃から阿蘇家の当主を護るため、入佐の某氏は当主を字駄原のある家の雪隠に隠し、十六家の者は老若男女を問わず全てが竹槍を持って木曽川(入佐の中央から東寄りを北から南へ流れる小川)を挟んで小西軍と戦闘を交えました。その故事が入佐の木曽川の行事として残り,その日が1月14日だったことから、どんどや行事の一部分として行われてきたといいます。

 入佐の小字は5つで,堀端、駄原、西、坊ノ園と吉鶴であり、堀端、駄原を以て上組、他の3つを以て下組と分けます。地理的位置の関係から、下組の戸数が上組より多いですが、上組の側が土地が50cmないし60cm高いから双方互角です。この上下組に分かれ,どんどやの日に木曽川を挟んで猛烈な竹槍合戦が行われました。
(次回へ続く)

2021年09月30日更新