(前回より続く) 

 区長宅をあとにして,お隣の報恩寺に立ち寄りました。ここは,慶長5年(1600)阿蘇家の老臣高森伊代守宗助によって創立された浄土真宗本願寺派のお寺です。天正13年(1585)の目丸落ちの際に、敵兵の目をごまかすために幼君惟善を足蹴りにした謝意と主家代々の冥福を願い名を宗句と改め寺を建てたと伝えられています。十代までは高森で,十一代以後は高森と宗助の2字をとり,高宗と改姓したそうです。明治42年に火災に遭い,大正12年再建されました。

 

  目丸落ちについては,「拾集昔話」や「阿蘇家伝」に次のように伝えられているそうです。

 

   一行は,浜の館を出て御前渡しから地蔵坂を通り目丸を目指しました。途中,何者とも知れない者たちが追いすがり,惟光,惟善兄弟を捕らえて島津方に差し出し恩賞を得ようとするのを,坂梨弥吾助は横なぐりに敵の顔面を切り払うと,上歯が見事に真二つに切れていたので,この刀を歯切丸といい現在も坂梨家の家宝となっていると言います。

 渡辺軍兵衛は背負っていた惟善を大岩のかげにおき,先頭の者を槍で突きふせ,とりすがる惟善に「大将はむずからぬものでございます」といって朱にそまった槍をひっさげ,一行はようやくのこと小宰相の局の在所,目丸山中の隠れ家にたどり着いたそうです(「矢部町史」より引用)。

 高森伊代守宗助が,敵兵の目をごまかすために幼君惟善を足蹴りにしたというのは,上記地蔵坂での出来事ではないかと思います。

(次回へ続く)

2021年09月27日更新